2012/03/24

言語で考えない思考


読書をする時は、単純に知識を得たいから読むという場合もあるけれど、基本的にはその本を触媒として新しい発想や視点を思いつこうという目的で読むことが多い。


今読んでいる本でもそういうことがあった。
読んでいるのは『技術者(エンジニア)の心眼』(ちくま学芸文庫)という本で、エンジニアのもつ独特な思考や技術の在り方について書かれている。この中に書かれていたエジソンの発明品に関する記述が、特に自分の中では引っかかった。



「エジソンは、蓄音機、印字式電信機、電気ー機械式テルオートグラフ(文字や絵を電気信号に変えて、離れた場所で再生する装置)、キネトスコープ(映画の前進)などの様々な機械で採用した機械的な組合せを、くり返しくり返し使用した(『技術者の心眼』p.46)」



つまりエジソンは、回転シリンダーという機構を自分の思考のスタイルとして、色々と応用しながら様々な機械を発明していったらしい。


例えばdysonは革新的な掃除機と扇風機を発明・商品化しているが、彼らはそもそも「空力をコントロールする」という高い要素技術を基板としているため、この2つの商品は(彼らにとっては)「空力のコントロール」という思考スタイルを応用することで作ることができる非常に近いものだと言える。


こういった思考スタイルの特徴には「言語で考えない」という点がある。
機構自体は、思考した結果を内省的に言葉で書くことができるが、今まさに思考している状況の中には言葉は無く、イメージで機構を組み合わせて動きを考えている。つまり、頭の中に具体的に歯車を思い浮かべて動かしているのだ。


このような言葉で考えない思考は、その状況自体を言語化できないがために、学校教育などの形式では教えることが非常に難しい。教科書やマニュアルを作ることができないため、師匠と弟子という密な関係性の下で口伝によって伝えるしかない。
見て、経験して身につけるしかない。


というわけで、こういった「言語で考えない」思考技術を身につけるためにはかなりの労力やコストがかかってくるわけだが、普通の人にとっては困難な問題解決が、この「言語化できない思考技術」によってできるため、身につけた人の人材としての市場価値はかなり高くなるはずだ。重要なのは、この思考技術によって解決できる問題の深刻さとレア度だ。


つまり、こういった問題解決に優位な差のある言語化できない思考技術を身につけている人間のことを「プロフェッショナル」と呼ぶのだ。プログラマー、料理人、デザイナー、エンジニア、スポーツ選手、それはもう様々な職業において、「言語化できない思考」は存在する。


自分の関心は矛盾するようではあるが、こうした「言語化できない思考技術」をどうにか言葉にする、理解する、使えるようにするというところにある。
佐々木正人著「時速250kmのシャトルが見える」でも示されていた通り、行為の記述を集積させることによって、その一端を浮かび上がらせることができるのではないかと思っている。


そして、こうした未知のものを言語化するという行為こそが、「研究」の本質であるのだと思う。まだもう少し時間がかかるとは思うが、新しい思考技術を言語化しなんらかの形で表現することに挑戦したい。

2012/03/05

パックを逆から開いてみると


ジャスミン茶を愛しているので、通勤時にはいつもコンビニでジャスミン茶の紙パックを買っている。紙パックを買っている程度だから、本当はジャスミン茶のことを愛していないのかもしれない。でも好きだ。

さてそんなことはさておき、今日もジャスミン茶をごくごくと飲み終え(立派な社会人は、紙パックにストローを直接刺して飲んだりはせず、コップやカップを使います)、いつものようにそのままゴミ箱に畳んで捨てようとしたのだが、なんとなく注ぎ口の反対側を開けてみるとこんなものが現れた。


「リサイクルありがとう。」

紙パックをリサイクルしようとする人が、こちら側の口を開ける(これはリサイクルする人は必ずする行為)ことを前もって見越して、予め印刷しておいたというわけだ。

印刷された文字を読みながら、人の行動を予測して動くというのは、サービスの本質なのかもしれないなと、考えていた。
このサービスという言葉の意味を大辞林で調べると「相手のために、気を配って尽くすこと」と書いてある。
もう少しだけ深く突っ込んでみようと、サービスという言葉の語源を調べると「Servitus(奴隷)」という言葉にたどり着いた。
つまり、どんな人でも、誰でも、等しく(ある条件下において)、労働(またはそれに準ずる価値の行為)を提供するのが"Service"という言葉の本質ということになる。そこには「気を配る」といった感情の要素は、無い。

ということからもう一度考えてみると、「リサイクルありがとう。」という言葉を予め印刷しておく行為は、本質的な意味での"Service"にかなり近いとも言える。誰にでも等しく、謝意を伝えられるように、人の行動を予測して動いておく。

日本語の「サービス」という言葉は、たぶん英語でいうhospitalityに近い。
リサイクルしたいなっていう気持ちはhospitalityに近い気持ちが無いとできないと思う。
義務やServiceではたぶん、無理だ。

だから、サービス業は成り立つが、ホスピタリティ業は成り立たないし、サービス業にホスピタリティを求めるのも少しズレている気がする。

さて、このブログを書く行為はサービス?ホスピタリティ?果たして何でしょうか。