2011/09/30

からっぽのビル

職業柄、色々な玩具店の売り場を見に行くことが多い。企画の仕事も全ては現場を見て、新しい事実を探すことから始まる。

この写真は、5年近く前に、そんな調査で訪れた津田沼駅近くで撮影したものだ。現在は、全く異なるビルに生まれ変わっている。




実はこのビル、パッと見てなんとなく気づいたと思うが、元OIOIのビルである。

画像加工は全くしていない。
撤退したからなのだろうが、カラーはそのままに、店のロゴだけが全て消失していた。
でも、これだけで、OIOI感というものが感じられた。
このビルにはこんなにもOIOI感はあるにも関わらず、実体としてのOIOIはもうここにない。
つまり私達が感じているOIOI感の正体とは、店舗のロゴではなく、ビルの色面構成なのかもしれない。

私達の物事の認識とはそれほどまでに曖昧なのだ。

これを見てまず思い出したのが、中村政人によるコンビニのネオンのみを本物に限りなく近く再現して抽出した作品だ。


こちらも色面だけだが、「これはセブンイレブンだとか」「これはファミリーマートだ」といった具体的なコンビニのイメージが即座に立ち上がる。

具体的なイメージがはっきりと頭の中に立ち上がっているのにも関わらず、いずれのネオンもロゴが無く「からっぽ」なものになっている。
この脳内イメージと目の前に現れている状況とのギャップが、「面白さ」を引き起こしているのではないか。

作品固有のメッセージは置いておいて、「からっぽ」さを利用した表現方法は、人間の記憶とイメージ想起のメカニズムという視点から、とても興味深い。

2011/09/29

報酬と行動

日本のサービスは「世界一」だと言われているが、それはある意味コストを度外視した「サービスの強要」によって極めて危ういバランスによって成り立っている。
昨今よく聞く「モンスター○○」みたいな人たちは、そのサービスにかかるコストには意識がいっていなかったりする。

人間の行動は基本的に、「報酬」によって操作される。報酬というとネガティブなイメージが付きまとうかもしれないが、極端に言えば「ありがとう」という言葉かけだって報酬の一つなので、その言葉の指す範囲はとても広く、複雑だ。

さて、上手く人にアクションを起こさせるためには、この「報酬」を与えるシステムをどうやってデザインするかが重要なわけだけど、いくつかヒントになる例を見つけたので紹介したい。

●事例1:お好み焼き屋


この店舗では「お片づけ割引」というサービスを実施している。
食事後に鉄板にこびり付いた汚れをコテで掃除し、皿・箸・コップをまとめて店員のチェックを受けて認めてもらうと、50円割引がされるというものだ。

「50円割引」という報酬(これはごくわずかな額ではあるが)で、「きれいに片付ける」という客の行動を引き出している。


●事例2:トイレッツ



セガが開発した男性用便器のエンターテインメントサービス。過去にも広告キャンペーンで似たようなアイデアはあったが、便器に的を付け、そこを狙って排便させる。的の水量・水圧によって、ゲームができるという仕組みで、尿の飛沫防止によってトイレの清潔さを保つ効果がある。
よく、駅のトイレなどには注意書きがあるが、ゲームにすることで、行動を操作するという例だ。


●事例3:ゴミ箱バスケット



nikeがブラジルでやったキャンペーン。街中のゴミ箱にnikeのロゴ入りのバスケットゴールをつけた。これによって、ゴミを捨てることが遊びになり、街中のポイ捨てが減ったという。
普段ポイ捨てしてしまう人でさえも、ゴミをゴミ箱にきちんと捨てさせる(きっとゴミをちゃんと捨てたという意識は無いだろうが)行動を引き起こしている。

この3つの事例から分かることは、
「ここまでやらないと(報酬を与えないと)人間は行動を起こさない」
「報酬を上手く設計することで人間の行動を操作することができる」
という二つの事実だ。

これはある意味普段声高に倫理を叫ぶ人にとっては、絶望にも近い事実かもしれないが、
本人は無意識かもしれないが、報酬の設計によって人の行動を不快感無く促すことができるという事実は、「問題解決者」の視点から見れば、大きな希望になると思う。

2011/09/28

イメージする力

よく電車にある、日能研の中吊り広告が好きでよく解く。
さすがに分からないと思い悩んでしまうものは無いので、簡単な頭のトレーニングのつもりで気楽に解いている。

webサイトに行くと過去の広告の問題も見ることができる。その中でも個人的に秀逸だと思う問題がいくつかあるので、紹介したい。いずれの問題にも共通点がある。答えを読む前に、是非自分で考えて解いてみて欲しい。

1問目 http://www.nichinoken.co.jp/column/shikakumaru/archive/mondai/sm_sa_0603.html


グラフを参考に水位が変化する様子を、頭の中でアニメーションさせることで、解くことができる問題。




2問目 http://www.nichinoken.co.jp/column/shikakumaru/2009/0905_sa.html


与えられた条件から、立体図形を頭の中に生成して位置関係から論理的に処理する、空間認識能力を問う問題。

さて、いかがだっただろうか。
この二つの問題を「秀逸」と評したのは、どちらの問題も、頭の中でイメージを作って動かすことで解くことができる問題だからだ。 

映像に限らず、新しいものを生み出す能力の中でも、頭の中で完成形をイメージして動かすというのは、とても重要な能力だと思う。
こういった問題を解くことを通じて、その能力を鍛えることができないか、今、考えている。

2011/09/27

解けないレジ袋問題

「レジ袋問題」といっても、昨今話題のエコバッグや環境問題の話ではなく、ごくごく身近な「ヒトのかしこさ」についての話である。

いつものようにスーパーへ買い物に行き、牛乳、食パン、ハム等朝食用 の食材を買い会計を済ませた後、ふと気づいた。それは、

「スーパーのレジ袋に、カゴから商品を移していれる時の入れ方には
いくつかのルールがある?」

ということだ。

ちょっと観察してみたところ、以下のような法則があるみたいだ。
 1.重いものを下に入れる
  →ただし、潰れて痛む可能性があるものは別(例:だいこん)で、
   牛乳パックは、OK(なんとか持ちこたえそう)みたい。
 2.生ものはなるべく上に
  →潰れると大変!だから。
 3. パック、パッケージの強度も考慮し、強いものは下に
 4.袋の中で積み重ねた時のバランスも大切
  →広い面積のものは下に(帰った時にテーブルにのせるから)
  →タテに長いのは、袋を持って 歩く(重力的に安定する)から、
   縦のままでOK

こんなに膨大な素材や強度の情報を 一瞬で判定し、袋の中のレイアウトを決めている。周りを観察してみると、みんな一定のルールの元に動いているように見える。
それほど迷いが無く、淡々と動いている。

また、カゴAからカゴBへとレジを通して移す店員にも、何から順番に通すかというルールがあるようだ。

これは、商品のもつアフォーダンスから、無意識に導き出しているのか?
それとも、バイト内で天才おばちゃんが経験則的に編み出したローカルルールがあって、それを踏襲しているのだろうか。興味は尽きない。

こういう、これまで言語化されてこなかったような、無意識の行為や思考について関心がある。

2011/09/26

空気の価値



左の紙袋2つに目一杯入っていたハガキを、シュレッダーにかけたら、右のゴミ袋2つ分になった。

固めの紙が細かく刻まれ、断片がそれぞれ微妙に折れ曲がった結果、空気が多く含まれ、全体の容積が増加したためである。
持ち運びの効率を考えると、シュレッダーなんかかけないで、紙袋に収まっていた方が遥かに効率はいい。物流の分野でも、輸送効率の悪さを「空気を運んでいるようなもの」と言ったりするように、輸送や保管の効率を考えると「空気」は邪魔なものでしかない。


しかし、今回のケースの場合、輸送効率を追求してしまうと個人情報が保護できなくなってしまう。
シュレッダーにかければ、容積は増加するが個人情報は保護できる。


同じモノ(ハガキ)でも、状態が変わることによって、その価値はがらりと変化する。(これは、どちらの価値が高いかという話ではない)

例えば、同じ空気の話で言うと、エアキャップ(プチプチとも呼ぶ)はまさに空気を壁にして衝撃を吸収する梱包材だ。空気は邪魔なだけではなく、こうやって密閉して上手く使うと、衝撃吸収もすることができる。
同じモノ(空気)でも、状態が変わることによって、新しい価値を生み出すことができる。


こういうマイナスをプラスに見る視点は、何かアイデアを考える際に役に立つので、身の回りで探してみると良い。

2011/09/25

敢えて経験するということ

今日は早朝から一日かけて、ぞうに乗ってきた。

乗って分かったことは、ざっくり書くと以下の通りだ。
・ぞうは結構ゴワゴワしていて、毛も硬い。(デッキブラシのようだ)
・ぞうは結構高くて、乗ると怖い。
・ぞうは歩く時、当然のことながら、重心が左右に揺れるので、上に乗ってるとおおおってなる。
・想像以上に自分のテンションが上がっていた。

つまり、実際に乗るのと頭の中でイメージしているのは全く違うという、当たり前の事実について改めて痛感した。
そしてとにかく楽しかったし、行って良かったと思っている。
やはり、見ただけでわかった気になるのは良く無い。

会社で「ぞうに乗りに行くんだ」とか言うと多少笑われることがあったけど、関係ない。
この世のありとあらゆることなんて、実際に行動しないと、わからないことだらけだ。

かなり前から楽しみにしていてやっと行けたわけだけど、本当に一日過ぎるのはあっという間だった。
楽しいことはあっという間に過ぎてしまう。

時間の早さの知覚は、脳内の情報処理、つまりtask(課題)の量に依存するらしい。
ざっと時間知覚関連の文献とかを読んだだけなのだが、確かになるほどと思う。
つまり、楽しいことは集中できるので、余計な行動や動きをしない=taskが少ない状態と言える。
一方、退屈な時は、何もしてないのではなく、手を動かしたりキョロキョロしたり、いろいろな事が気になったりするので結果的にtaskが多い状態になってしまっている。
で、taskの量が多いと脳は時間を長く感じる(やることいっぱい!!)ようにできているため、
楽しいことはあっという間に、辛いことは長く時間を感じるということだそうだ。

楽しいことは、集中できる。
集中した後は、何か充実感と喜びを感じる。
喜びと集中の関係性を考えると、何か新しい教育や体験を設計するヒントが得られるかもしれない。

2011/09/24

未来に向かう

一泊二日の旅から帰る。帰りも引き続き、ノートに色々書きつける。

よくよく考えてみると、ノートは基本的に、まだ「書かれてない」白い紙の束を持ち歩いてることになる。
いつ頃から、何も書かれてない紙の束をわざわざ持ち歩くようになったのだろうか。
予め「新しいことを思いつく必要がある」と未来を持ち歩く準備をしておくという発想はとても面白い。

つまり、ノートを持ち歩くということは、意識や思考が未来に向かっているということだ。
まだ思いついてないけど、きっと近い未来に自分が新しいことを思いつくから、それを書きつけるために準備しておかなくちゃっていう思考の果てに「ノートを持ち歩く」という行動が出てくるわけだから。

これは自分が良く言うことだが、いつも自分は「未来の自分に期待する」という考えで行動している。
きっと未来の自分は、素晴らしいアイデアを生み出してくれるだろうというある意味無根拠な、過信も入った期待だ。
ただ、これを口にするということは、今の自分は過去の自分から「期待された」存在であるということでもある。
つまり、過去の自分の期待に応えるために、今必死になる責任がある。

でも大丈夫、今足りないなと思っても、さっき書いた通りきっと未来の自分が取り返してくれるから。
そうやって、自分自身にプレッシャーを与えながらも、リラックスして生きていくと良いんじゃないかな。

2011/09/23

答え合わせ

旅行に出ている。
旅に出る時も、移動中は常に色んなことを考えたり思いついたりするので、ノートは手放せない。
ノートのページをめくると、こんなページが出てきて、思わずビックリしてしまった。


「こんにちは。このページは当初、9/23に使う予定でした。どうですか?」

という付箋がそのページには貼ってあったのだ。
もちろんこの付箋は自分が貼ったのでホラーでも何でもないのだが、貼ったことをすっかり忘れていた。
で、貼った当時のことを思い出したのだけど、このノートはそもそも3ヶ月で使いきろうと思っていて、
使い始めたその日に、ちょうど1/3のページに一ヶ月後の日付を書いたこの付箋を貼ったというわけだ。
過去から未来へと先回りされているようで、不思議な気持ちだ。

手帳なんかによくある「目標を常に見える形にしておこう」という思想とは全く異なるものだ。
このページに到達した日が目標日より早ければ嬉しいし、遅ければ少し凹む。ただ、それだけだ。
答え合わせをするということだけしか、できない。
そもそも、貼ったことさえ忘れていたんだから、目標にすらなっていない。

でも、これでいいのではないか。と思っている。
もし常に「◯日までにノートを使い切る!」みたいな目標が見えていたら、たぶん新しいアイデアを出すということよりも、
とにかく何でもいいから書いて、ページを埋めるということが目的になってしまうだろう。
それでは、本末転倒だ。

「義務」で処理して上手くいった試しがない。
自分のペースで進めていたものが、相対的にどうだったのかしっかり後から検証できるようにしておく。
それを踏まえつつ、また自分のペースで前に進む。
そうやってやったことと誠実に向かい合って進んでいくのも、悪くない。

2011/09/22

お手本という構造

「絵がうまくなりたい」とか「字がうまくなりたい」という気持ちは日々起こるわけだけど、なかなかどうすればいいか、上手くなるための道筋が分からなくて、日々悶々としている。

こういう時は先人に学ぶと良いのでは無いかと思い、伝統芸能や「習い事」と呼ばれるものの学習プロセスを少し見ていた。
いずれにも共通していたのは、技術の初期段階において、有効なのは「お手本に習う」つまり、熟練された動きをテンプレートとして真似るということだ。

「お手本」の使い方にも二種類ある。「見て真似る」方法と、「なぞって写す」方法だ。

文字を見て真似る場合は、視覚から文字の形を入力して、身体(手)で文字を出力する。
舞踏やスポーツの「型」みたいな身体の動かし方というのも、見て真似る。
この「見て真似る」方法の問題点は、あくまで「見て」真似るため、視覚から入ってきた情報と自分の身体運動を対応させる間に、ノイズが入ってしまうことだ。
なので、できれば硬筆の練習のように「なぞって写す」ことを繰り返すことによって、視覚と身体運動になるべくノイズが無いようにしていくのが良いのではないかと思う。

「型」のようなものをどうやって3次元的になぞれるようにするかっていう技術的な問題が解決されると、学習システムはかなり面白くなりそう。

2011/09/20

本を掘る

いくつか良く行く古本屋を回って、偶然とても素晴らしい本を見つけた時の喜びは、何ものにも代えがたい。
今日もいくつか店を回る中で、とてもいい本を見つけることができた。

冒頭でつい「偶然」と書いたが、たぶんこれは偶然だけでは無いと思う。
コツというか、「いい本に出会うための学習可能な技術」と言えるものがそこにはあるように思えるので、少し考えてみたい。

本は大量にこの世界に存在するわけだから、理論上はすべてを手にとって眺めることは不可能だ。
しかし「いい本」にたどり着くためには、時間的制約がある。そういうことを加味すると、多分以下の3つほど条件が重要になってくるだろう。

1.何をもって自分にとって「いい本」なのか知る。
2.これは「いい本」だということを知識として知っておく
3.1と2の膨大な思考と知識から、推測する術を持つ。

たぶんこれが一番重要だと思うのだけど、1をまずハッキリさせること。自分は何が好きなのか、何にそそられるのか、何を見た時に一番興奮してしまうのかを明確にしよう。「ダイアグラムを見ると興奮する」とか具体的にすればするほど良い。
2は掘り出し物を見逃さないための基礎教養として重要な知識。1を明確にしている間に知ったものとか、雑誌やwebの特集で紹介されていて気になったものとかを、中身やタイトルだけでなく、きちんと検索して書影を見て知っておくこと。書影を知らないと、偶然古本屋で見かけても「あっ!」と思って手に取ることができない。
そして3は言い換えると「これはよさそうだ」というジャケを選ぶセンスを鍛えるということだ。それには、自分のフィルターを高める必要がある。

こういったことを積み重ねていくと、「いい本」に出会える確立が格段に上がると思う。
ぜひ味わって欲しい。掘る楽しさと見つける喜びを。

2011/09/19

いらないキーホルダー

九州から東京に戻る際に、お土産を買おうと思い、空港のお土産屋で買い物をしていた。
大抵こういう時は甘いものが喜ばれるので、まあ適当に名物っぽいお菓子を買ってお茶を濁すことにしている。
自分用に何か買うということはほとんど無い。

そんな自分が唯一お土産屋でテンションが上がるのは、「いらないキーホルダー」を探す時だ。
地方の名産品や偉人等をモチーフとした、様々なキーホルダーを眺めながらどれが一番いらないかを決める遊びだ。

そこで選抜した「一番いらないキーホルダー」は本当に欲しくなく、もちろん購入することもなかったわけだけだけど、こういう商品を見るといつも思うことがある。

それは、「こんなの欲しがるヤツなんているのかよ」と思えるような「ものすごくいらないキーホルダー」でさえも、誰一人買わないということ無い。誰かしら買う人はいるのだ。

今の会社で働き初めて、いくつか衝撃を受けたことがあるのだが、その中の一つが「どんないらないものでも、売上0というのは(店舗単位ならあるかもしれないが)無い。」というものだ。

「これ本当に売れなかったな」「(自分の立場で言ってはいけないが)これ誰が買うんだよ」みたいなものでさえ、ごくごく僅かかもしれないけれど、誰かは、必ず、お金を出して、買うのだ。

そう、世界中誰一人にも見向きもされないなんて物は無いのだ。

利益を出して、継続していく企業の目的に照らし合わせれば「失敗」なのかもしれないが、
世界は広い。どこかに必ず、自分の想いに応えてくれる人は、いる。

この事実は、とても大事なことだと思う。
この事実は、とても勇気が出ることだと思う。

2011/09/18

機内で感心する

昨日から九州に来ているわけだが、その際飛行機で見た映像が、とても面白かった。

機内の小さなモニターでかつ、音声も無かった(ヘッドホンで流れていたのか不明。スゲはつけていなかった)のだけど、映像だけで説明なく「面白さ」が分かるとても秀逸なコント番組だった。

この番組は、海外の素人を騙してドッキリさせるという主旨の番組で、自分が見たものの一つはこのような内容のものだった( Best of just for laughs ( 2011 ) HQ )。

杖をついた老人が車に乗り込むと、驚くべきドライビングテクニックでドリフトしながら縦列駐車をキメ、通りがかりの素人が驚くという内容のものだ。

笑いの構造の基本は「ギャップ」であるとよく言われるが、まさにその通りだと感心せざるを得ない構成だった。特に海外の映像で、音声もなく伝わったことが素晴らしい。ユニヴァーサルなコミュニケーションに成功している、貴重な事例だろう。

言語やローカルな文化に依存した表現の方が理解のスピードは早いが、人を選ぶ表現になってしまう。

もちろん、ある程度の文化的スキーマのようなものが必要であるとは思うが、国や言葉を超えて伝わるコミュニケーションとはこういうものなんだなと、とても勉強になった。

2011/09/17

最初の挑戦者

私用で父親の実家がある九州に来ている。
地下鉄や電車・バスといった交通網が張り巡らされている都市圏では無いので、移動には自動車が必須だ。
迎えに来てもらった車に乗り、移動していると「中古自動車販売店」をかなり多く見かけた。
前述のとおり、自動車が生活必需品となっている地域だから、中古需要が高いもの納得できるのだけど、
結構な山の中、自動車が無いと行けないような所にばかりあるのが、とても気になった。

「中古車を買いに行くために、車が必要」という構造は面白い。
車を買うために車が必要ということは、その車を買いに行くために乗った車を買うのに必要な車はどうしたのだろうか…
などと延々と考えていたら頭がクラクラしてきた。

こういう構造をもつ問題が、たまに自分の頭をジャックして離れなくなってしまうことがある。
例えば、「(史上)はじめて免許証とった人に、車の操作を教えた人は、誰に教わったのか」とか「外国語の先生の先生の先生のと遡っていくと、最初の人はどうやって言葉を習得したのか」といったことだ。

きっと調べればすぐに分かるのだろうが、用意に想像できるのは「何事にも、一番最初は誰かが挑戦したことで始まった」ということだ。
誰かが勇気を決して、コミュニケーションしたり、触ってみたり、面倒くさい移動を乗り越えたことで今の便利さや知識を享受することができている。

どんな些細なことでも、新しい試みをして乗り越えるというのは、とても大変でエネルギーが要る(休日に外に出かけるにもちょっとエネルギーがいることを想像してみて欲しい)。

先人たちがやってきたように、自分ができる、挑戦して乗り越えるべき人類にとって新しい試みは何だろうか。

2011/09/16

町の小さな発明家

会社の近くは、繊維関係の問屋街なので多くのトラックや台車が道を走っていたり、店先に駐車されていたりする。台車自体はご存知の通りブレーキが無いので、完全に平坦な道でも無い限り、放っておくと勝手にコロコロと走り出してしまう。

さて、問屋街を歩きながら、(写真1枚目)を見た時に「これは何だろう?」と思っていたのだが、よくよく見ると、(写真2枚目)のように台車が転がらないためのストッパーの役目を果たしていることが分かった。



気がついてしまえば何のことはないのだけど、お店の人たちの試行錯誤の結果としての洗練が見て取れて、とてもうれしい気持ちになる。

町にあふれた、小さな発明家による試行錯誤をもっと見たい。
とるに足らないものかもしれないけれど、そこにはささやかな創造の喜びがあるから。

「わたしのすがた」の「わたしのすがた」

2010年11月23日(火)勤労感謝の日、17時の回で予約して見た。

最初に、第一、第二会場までの地図を渡される。

第一会場は、出てすぐの校庭の芝の中。大きく、丸く、深い、極めて人工的な、だが、何らかの力が働いたかのような(大友克洋の童夢や七夕の国みたいな)穴が空いている。隣には聖書から引用された一文がパネルに貼ってある。最初からかなり不穏な空気。
校門を出て、第二会場へ向かう。すぐそこで落ち葉をはいて集めている人がいる。全く関係ないが、何か関係あるんじゃないか。街全体が、舞台装置になってしまっている。もう、飴屋法水の術中に嵌っている。

第二会場。だいだいの家。民家の廃屋。先ほどの地図を手渡す。妾が元々住んでいたという設定の家。だいだいの木が目印でだいだいの家とのことだが、木はごっそり抜かれている。その穴も第一会場のミニチュアのような人工的な丸い穴。屋根には蜂の巣。家の中も不穏な空気。生活用品がそのままに朽ち果てているところから、引越しではなく、不慮の事故により家主が喪失したことを連想させる。

第三会場までの新しい地図を受け取る。半分の教会。地図を渡す。元教会から元寮として使われていた。という設定。数十年前の宗教家の手記や肉声(おそらく架空だが、本物感は凄まじい)が置かれている。ある部屋には象徴として大きな蜂の巣。壁には「人を傷つけてしまった」と指で書いた大きな血文字。
奥に、一人ずつはいる懺悔室。鉛筆で、誰も見てないところで、自らの罪を告白する(壁やカーテン、好きなところに書く)。中々書けない。が、正直に書く。恋人以外との性行為に快感を覚えた女性の独白が結構多いことに驚く。自分と向き合い、すごく嫌な気持ちに。入り口付近にも、また懺悔室。同じ仕組み。今度もたいしたことは書けなかったが、みんなもそれ相応の苦難があって、それでも日々を生きている(そしてこのF/Tにも来ている)ことに、逆に勇気が出る。悩みや苦しみを抱えた自分は一人じゃない感じ。この心境の変化には驚いた。(苦しみ自体の根源からは開放されないんだけど、同じように苦しみをみな抱えているという認識自体が、救いになったということなんだろうと、今思う。丁度仕事関係や将来のことについて色々深刻に悩んでいたので、それともリンクしたのだが)
そもそも、あの部屋で、何でそこまでちゃんと自己と向きあおうとしたのか。あそこで書かなきゃいけない気分になったのかっていうことにすごく興味がある。

最後、第四会場までの新しい地図を受け取る。少し遠い。廃墟になった、休日診療所。日は落ちて、怖い。入り口で懐中電灯を受け取り、照らしながら移動。入っても照らしても、暗くて、怖い。待合室のテレビが付いている。最近のCMっぽいから、つけっぱなしって設定(それもまた変だが)なのかなあとか思ったら、「行方不明になっていた診療所の看護婦が川の近くで変死体になって見つかった」とかいうニュースショーの録画映像が流れてきてびびる。意図されたものだということを再度察する(偶然だったらまずすぎる)。奥の部屋の中には、土の山が。別の部屋にも土の山。他にも小分けにされた土たちがある。最初に土の山を見た瞬間、第一会場、第二会場(だいだいの木)、第三会場(蜂の巣の部屋)の穴の土だなと思う。それぞれの部屋の近くに、聖書の抜粋文が貼ってある。関係性を見出さずにはいられない。物語のような宗教的体験のような何かが、頭の中で醸成されていく。二階へ上がる。聖書の中の話も少し進んでいる(キリストの磔までのストーリーらしい。よく分からないけど)。機織り機と大量の金髪。不穏なモチーフが山盛り。聖書の話と微妙にリンクさせながら、死の匂いを漂わせる。奥の部屋。ドアを開けて閉める部屋(そう指示が書かれている)。中には簡易ベッドの上に布。暗い部屋で離れたところから見ると、聖骸布を連想する。近づいてみると、(聖骸布のような)人と推測できる形に骨(何の?)が並べられている。近くにいると電子音。びっくりする。そこから出て、奥へ。キリストの衣服が剥ぎ取られたという聖書の文と病院の患者の残した衣服等が並んでいる。日記はキリストの日記みたい(文章は手書きの日本語で、内容がソレ)違和感。最後、さらに三階へ。登っているときのクライマックス感ヤバい。勝手に終わりの感じがしてくる。聖書のストーリーとゴルゴダの丘?の曖昧な知識から連想される。のぼりきった所でまた聖書の引用っぽい文が貼ってある。もう終わりにしよう。帰ろうという内容の文章。本当に聖書の文章かは知らないが、そういうふうにずっと思っていた。まだ思っている。
そして降りて診療所の入り口へ。
最後にリーフレットを渡される。

出て開く。

そこに、一文。

わたしは
日本に生まれました。

わたしは
無宗教、
無神論者です。

と書いてある。愕然とする。物語を生成させていたのは、自分自身。勝手に宗教的な気分を思い起こさせられていただけだったのかと気づく。物語なんて、最初からなかった。あるのは自らの知識と記憶から紡がれた、誰のものでも無い、物語であったのだ。だから、その、宗教的な感覚やドラマ感自体が「わたしのすがた」であったのだと思う。
人間は物語を無意識にでも紡がざるを得ない生き物であると同時に、辛さや苦しみだって(喜びもだけど)その程度でしか無いんだと笑い飛ばすことだってできる。ということなのだろうか。わからない。そう捕えることができるけど、正しいことなんて無いから。飴屋法水はそうとう喰えないおっさんだということは分かった。そこまで見越して完璧に設計していることも分かった。でもわからない。もう少し考えよう、色んな人と、話そう。

ちなみに、自分も、日本に生まれた無宗教、無神論者である。

2011/09/15

イメージのアナロジー

スーパーの隅っこで良くある、「アイデア商品コーナー」が結構好きで、買い物に行く度に色々物色してしまう。

そのほとんどが、ニッチ過ぎて存在意義に疑問を抱かざるを得ない物ばかりなのだが、たまに心をとらえてはなさない物に出会えたりするのが楽しみになっている。

しかし、今日も物色していて思ったのだが、今までに無かったモノ(商品)の機能や意義を説明するのは、とても難しい。大抵そういう時は「○○に似ている」というようなコピーを使い、詳細な解説でなくイメージで商品特徴を理解させようとする。

例えば、今日見つけたものはコレだ。


濡らしてそれ自身が削られることによって汚れをこすり落とす、洗剤+スポンジといったポジションの製品なのだが、某消しゴムに非常にデザインが似ている。

何も説明しなくても、見ただけで「こすって汚れを削り落とす」ということが分かる。全く新しい素材や機能の商品にもかかわらずだ。
もちろん、何十年と歴史がある某消しゴムの強い認知があるからこその話だが、この理解のスピードの速さは、とても気持ちがいい。

このスピード感をしっかりと覚えておこうと思った。

2011/09/14

物の住所を決める

部屋を片づけなければいけないと日々強く思っているのだが、まだ行動に移せていない。

職場の自分のデスクは、効率を上げるという意味もあって、徹底的に整理してある。

基本原則は以下の二つだ。

1.物の住所を決め、動かさない。使ったらすぐ戻す。たとえ面倒でも、テンポラリ的にデスクの上に置いたりしない。
2.物の使用頻度を意識し、頻度の高いものを近くに置く。全く使わない物は処分する。

これを徹底することで、驚くほど効率的で整理されたデスクができあがる。
そして、物の使用頻度は変動するので定期的に見直すのが良い。
よく使うにも関わらず、少しでも取り出す際に「面倒くさいな」と思ったら配置を見直すべきだ。

使っていると「ハサミはあの辺り」といったように位置と物がマッピングされるため、変更した当初は物を取り出すスピードが遅くなるかもしれないが、使っている内にすぐマッピングは更新される。長期的に見てストレス・時間短縮されることが重要だ。

というわけで、このルールを部屋にも適用していいものかどうか考え続けているため、なかなか片づけが始められずにいるわけだ(逃避&言い訳)。

2011/09/13

リーマンホイホイ

朝から暑い日が続くため、吹き出る汗と戦う日々が終わらない。朝食を食べ、乗り遅れないように急いで駅に行くともう汗だくだ。

ホームに行くと、何故かある一区画だけサラリーマンの密度が明らかに高い。不思議に思って近づいて、よく観察してみると、ホーム用の巨大なクーラーの風が当たる位置に溜まっているようだ。(写真)



サラリーマンたちの行動がクーラーによって制御されている。

こう書くとかなり特別なことのように思えるが、環境によって行動が規定されることなんて、身の回りに溢れすぎていて、何ら特別なことではない。

歩道一つとっても、歩く場所が事細かく(ルールではなく例えば段差のような構造として)決められているし、店に入れば、計算し尽くされた商品の陳列や導線によって、自分の購買欲を刺激される。

自由に行動しているつもりでも、私たちは知らず知らずのうちに、見えない何か(それは往々にして誰かの意図に基づくのだけど)に行動を規定されている。

そういった見えない何かを敢えて可視化させて、擬似創発体験ができるような展示やテーマパークみたいなものがあると、とても楽しいのではないか。

ということを、クーラーをサラリーマンに占拠され風を受けることができず、汗だくの状態でホームで地下鉄を待ちながら考えていた。

2011/09/12

新商品発売

今日、2年ほど準備してきた商品がついに発売される。
子どもや母親の生活から、新しい市場形成のチャンスを見出し、コミュニケーション戦略をまとめ、仕様やデザインに落とし込み、具現化の際のコスト・機構上の問題を乗り越えながらようやく発売に至る。

かなり入念な準備を積み重ねて「絶対に売れる!」という確信をもって発売するわけだが、正直なところ、発売してみないと本当に成功するのかわからない。

結局のところ、「絶対」なことなんて存在しないのだ。市場に委ねるとはそういうことだ。

「じゃあ、そんなに論理的に緻密に入念に組み立てる必要なんてあるのか?結局ギャンブルなんだから同じじゃないのか?」と思う人もいるかもしれないが、それは違う。

緻密に戦略を構築していくということはつまり、「何をして何をしなかったか」ということをその判断理由も含めて明確にしておくということだ。

そうすれば、もし、失敗してしまったとしても「何故失敗してしまったのか」考える際の重要なヒントを得ることができる。どの判断と判断に至るまでのプロセス、根拠に問題があったのか、明らかにすることができる。

ここまでして初めて、「失敗」を「経験」にすることができる。

ただ闇雲に繰り返しても、何も知見として定着しない。それは経験にならない。ただ無駄に自分と周りの人生を浪費しただけだ。

だから、今度の商品も、もしかしたら失敗してしまうかもしれない。でも、たとえ失敗したとしても、それを経験に変えるだけの準備を十分にしてきたという自信だけはあるし、そこまでやってこれたことに、今は、とても満足している。

その上であわよくば、この国の子どもたちと母親に商品が受け入れられて、新しい喜びを与えることができればと願っている。

2011/09/11

Gあらわる

部屋にGが出た。
最新兵器で戦ったが、逃げられ、クローゼットの中に消えた。非常に不快だし、自らの戦闘の不甲斐なさを恥じる思いでいっぱいだ。

今年は全く現れてなく、もう夏も終わるので正直舐めていたということを認めざるを得ない。
そして、この遭遇の事実により「部屋のどこかには奴(ら)がいる」という前提の中、私は今後暮らしていくことになる。

これはつまり「常に有事=戦闘状態」が前提の生活が始まったということだ。帰宅して、部屋の明かりをつける時の緊張感や寝る際の不穏な感じから、逃れることが出来ないのだ。
奴らは、いつどこで現れるかわからないのだから。

常に奴らの事を怖がりながら、如何にして恐怖の元になっている奴らを殲滅させるか、真剣に考えてしまっている。

この構図には既視感がある。

前述の文章の「G」や「奴ら」を「テロリスト」や「放射能」と置き換えて読み直して見て欲しい。普通に読めると思う。

問題のレベルを問わず、「見えない恐怖」ほど怖いものはない。アメリカの気持ちがわからなければ、放射能の恐怖に感情移入出来なければ、もし自宅にGが現れたらと考えてみる事で、自分の心の中にも具体性が出てくるかもしれない。問題は違えど、心理構造は一緒だから。

そして、その上で、見えない恐怖に打ち勝つためにはどうすればいいのか考えてみる。

イタチごっこを繰り返しながら敵を殲滅する?殲滅できたなんてどうやって確認するの?
それとも見て見ぬふりをするうちに慣れていく?慣れて健康に問題は無いの?

答えはまだ分からないが、ただ一つだけハッキリしてるのは、僕が次の週末に部屋を片付けて、バルサンを炊くということだ。

2011/09/10

早めの旨みに要注意

普段あまりコンビニで弁当などを買うことは無いのだが、作業で全く時間が無かったため、食料を買いにコンビニへ行った。

売場を見ても特に食べたい物も無く、どうしようかなと考えあぐねていたところ、「塩むすび」と書いてあるおにぎりを見つけ、「これなら余計な具も入ってなくて素晴らしい!」とカップの味噌汁と共に購入した。

帰宅後、味噌汁にお湯を注ぎ、さあ食べようと「塩むすび」を口にしたところ、妙に享楽的な味がするので「!?」と思い素材表記を見たところ、「サラダ油」「味の素(的なもの)」と書いてあった。

米には味の素(的なもの)がまぶされ、表面にはサラダ油が塗られた、「塩むすび」改め「アジシオむすびサラダ油塗り」だったのだ。騙された。

「享楽的な味」のするものは警戒するようになってきている。「享楽的な味」とは、「旨い」までの閾値が低く「いくらでも食べていたい」と思いがちになる味のことを指すさっき作った造語だ。

当然のことながら味も化学反応だ。食物を口に入れ、噛み、唾液と混合し変化した状態で舌の味蕾(みらい)に触れることによって初めて、味(という情報)は生成され旨いと感じる。

なので、口に入れた瞬間、こんなに早い段階で「旨い」と感じるのは怪しいと思ったのだ。


さて、ここまで書いたことは特に根拠もなく曖昧な知識だけで敢えて断定的に書いているわけだが、みなさんはどう思われただろうか。
おそらく最初の「コンビニで弁当」の文字列を目にした瞬間から、「コンビニ=体に悪い」という先入観に基づいて読んでいたのではないだろうか。
だから、「味の素」「サラダ油」といった単語もネガティブなイメージで読まれたと思う。自分もそうだ。
それが本当に体に悪いかという正確な知識よりも、「世論の流れ=常識」という先入観が常に付きまとっていることに改めて意識的になった方が良い。


ということさえも実はどうでも良くて、実際はさっき思いついた「享楽的な味」という単語がとても面白かったので使ってみたかっただけである。(おにぎりの素材と感想はホント)

2011/09/09

時間の圧縮

最近は、一枚の図版に様々なスケールの時間を圧縮するにはどうすればいいのか、ということを考えている。

「時間を圧縮する」というのは簡単に言うと、「頭の中で画を動かすためのきっかけ」をつくるということだ。
圧縮したデータ(=図版)を頭の中に送り込んで、デコード(復元・解凍)して、頭の中だけでは動いているという状態にする。
この際に「どうすれば特殊なソフト(=能力)がなくてもデコードができるのか」を模索し、表現方法論として確立させていくのが自分の仕事だ。

こういうことを考えるときはいつも、始めにまず、とっかかりになるような図を描くようにしている。
下の画像は時間の圧縮について考えていた時に描いた「既に起こったこと」と「これから起こること」について示した図だ。


こういった図を描きながら、「確かにそう見える」だとか「もしこの線が点線だとしたらどのように見えるか」だとか、「線以外でこのような表現をすることは可能なのか」といったことを延々と考えていく。
一方で過去のダイヤグラムや図表などの文献資料を探りながら、同じような試みやヒントになるような実践が無いか調べていく。
これで食っている訳ではないので完全に個人研究の枠の中での出来事なのだが、こうやって一つ一つ探っていくのは本当に楽しい。こういった感じでいくつものテーマの個人研究プロジェクトを密かに進めている。

さて、「時間の圧縮」についてだが、今は「人間は、ある単位(時間)内では、一つの(時間)方向しか知覚することができない」という仮説を立ててグラフィックの実験を行っている。

これが形になるのはまだまだ先のことだが、たとえ間違っていたとしても、こういった個人の思索や試みの積み重ねが、新しいものを生み出すきっかけになると信じている。

2011/09/08

パンチによるイノベーション

新しい商品を生み出す際のアプローチとして、既に世の中に存在する「ありふれた」商品を改良して、全く新しい使い方を提案するという方法がある。

これまでのその商品の使われ方のイメージが頭にあるということも相まって、「そういう使い方があったのか!」という驚きの度合いが、とても大きい。上手くはまれば、世の中に対してもより多くのインパクトを与えることができる。

さて、無印良品は結構、今まであった商品に新しい価値を付ける「価値の置き換え」を積極的に試みているイメージがある。
今日、心奪われたのは新商品(未発売)の「切り取り線が作れるパンチ」だ。


以下、r25.jpにあった商品説明文を引用する。

こいつでページの角をパンチすると、指で丸くちぎれる切り取り線を作ることができます。メモ帳であれば使い終わったページの角をちぎっておくことで、何かメモを書き込みたいと思った時に、メモ帳の角をつまむだけで白紙ページをパッと開くことができます。スケジュール帳であれば、1日/1週間が終わるごとにページの角をちぎっておけば、今日/今週のページをサッと開くことができるのです。(http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20110720-00020791-r25

角がちぎれるようになっているものは結構多いが、穴あけパンチによって、どんなノートにもその機能が付けられるようにしたというところが新しい。パンチ穴の形状を変えただけで、そこに新しい価値や使われ方が現われる。

こういうものに出会える機会というのは滅多に無いのだけど、
いつも「どうして自分がそれを思いつけなかったのか」と、とても悔しくなる。その一方でとても嬉しい気持ちにもなりニヤニヤしてしまう。
何度でも書くが、アイデアは尊い。それを生み出す瞬間こそが、人類の最高の営みだ。
ぼくたちはそれに触れることで、ちょっとだけその最高の瞬間をおすそ分けしてもらって、追体験することができる。