2012/07/06

君に意味のないもの、僕に意味のあるもの

数年前に作ってから放って置いてあるTwitterbotがあるのだが、Twitterのタイムラインでなぜか妙に目に留まったのが気になった。

@TakuyaAizawaというこのbotは、平日の8時から20時まで、一時間おきに都内の地下鉄の駅名を一つ、ランダムでpostする。


元々は、無意味な駅名の羅列を目にすることで「さっきまで北千住にいたのに、今光が丘にいる!」といった感じで、勝手に駅名同士を結びつけて、意味を作り出すことができるのではないか?という仮説の検証をするために作ったものであった。

この仮説はある部分では成功し、個人的にはいくつかの物語についての新しい仮説を得ることができたわけだが、follower数が多すぎるとノイズにまみれてしまい、ほとんど無視されてしまうという欠点があった。
ところが、普段は全く無視しているはずなのに、たまに妙に目に付く(留まる)ことがある。

!?と思い、今自分に何が起きたのか振り返って見なおしてみると、自分が使っていたり、近所だったりするような、親しみのある?駅名がpostされた時に目に留まるということが分かった。そして、全く自分と無関係な駅名がpostされても、ただのノイズとして流れていってしまい、目に留まらない。

つまり、「自分の持っている知識」という文脈があれば、言葉はノイズの中から抽出することができるということだ。

認知心理学では、私たちが様々な未体験の物事を認知・体験する際に、あらかじめ頭の中にある知識(=スキーマ)を使うことで、上手く対処できるようにするというはたらきのことを、「スキーマ理論(Schema Theory)」と呼ぶ。


今回の@TakuyaAizawaによる特定のpostが妙に目に留まってしまったのも、この「スキーマ理論」が背景にあると考えられる。


自分の特定の駅名に対する記憶が、タイムライン上の無数のpostというノイズの中から注意を引き起こしている。
ただ、注意と言ってもピン!と尖っているようなものではなく、なんとなく目に留まり無視できないというようなものだ。この「あ、これ知ってる!」と意識が立ち上がる前に、あらかじめ脳が準備しておいてくれたかのように「自然と頭に入ってくる」感じがとても興味深い。

もう一つこの現象に関して重要なのは、当たり前のことではあるのだが、私達が持っているスキーマは一人ひとり違うということだ。

あなたにとって意味のある情報は、他の人にとっても意味があるとは限らないということだ。こと、表現やシステムとしてコミュニケーションを設計・開発する場合には、この視点がとても重要になる。


人にある物事を理解してもらうというのは、この「スキーマは個々人でバラバラでほとんど共有されていない」という当たり前の前提との闘いなのだ。
だからこそ、私達は「辛うじて共有できているスキーマ」を探すためにトライアンドエラーを繰り返す。

この、「辛うじて共有できているスキーマ」を発見できた人が多くの人々に届く表現を生み出すことができるのだろう。


さて、話は変わるが、人間の認知や思考の特性を探るために、Twitterbotを使うというのは非常に面白い。@TakuyaAizawa以外にもいくつか制作して動かしているものがあるので、これについては、また後日考察してみようと思う。


きっと様々なヒントが隠れているはずだ。

2012/05/20

そのモノの作られ方を想像する

最近は会社でも、鉛筆を使って仕事をしている。特に理由は無いが、鉛筆を削っている間のちょっとした時間が頭を冷静にする良いきっかけになっている。 

僕は基本的には6Bの濃さの鉛筆を使っているのだが、余り力をかけずに紙にコピーやデザインラフなどを書くことができてとても気持ちがいい。
ただ、普通の鉛筆だけでは仕事にならないので、上がってきた印刷物の修正指示などに、赤青鉛筆も使っている。

さて、いつものように赤青鉛筆を使っていた時のことだ。
ケースに入れずに持ち運ぶことも多いので、青鉛筆部分の軸に傷が付いてしまっていた。別にたいした傷ではないのだが、何か引っかかったのでよく見てみると、傷の部分が赤くなっていた(写真)。


さらによくよく見ると、削った境界からも、赤い色が僅かに見えている。
ここから、この赤青鉛筆は、最初に軸全体を赤く塗った後、青い芯が入っている側半分だけを、青く上塗りしているということが分かる。

確かに二つの色をそれぞれ半分ずつ塗るよりも加工が簡単だし、赤→青の順で塗れば、重ね塗りによる色変化の影響もほとんどないだろう。

このように、傷や綻びの部分から、そのモノがどのように作られたのか想像するのは、様々な人がモノを作るために行った創意工夫が露になる瞬間は、とても尊い。

2012/03/24

言語で考えない思考


読書をする時は、単純に知識を得たいから読むという場合もあるけれど、基本的にはその本を触媒として新しい発想や視点を思いつこうという目的で読むことが多い。


今読んでいる本でもそういうことがあった。
読んでいるのは『技術者(エンジニア)の心眼』(ちくま学芸文庫)という本で、エンジニアのもつ独特な思考や技術の在り方について書かれている。この中に書かれていたエジソンの発明品に関する記述が、特に自分の中では引っかかった。



「エジソンは、蓄音機、印字式電信機、電気ー機械式テルオートグラフ(文字や絵を電気信号に変えて、離れた場所で再生する装置)、キネトスコープ(映画の前進)などの様々な機械で採用した機械的な組合せを、くり返しくり返し使用した(『技術者の心眼』p.46)」



つまりエジソンは、回転シリンダーという機構を自分の思考のスタイルとして、色々と応用しながら様々な機械を発明していったらしい。


例えばdysonは革新的な掃除機と扇風機を発明・商品化しているが、彼らはそもそも「空力をコントロールする」という高い要素技術を基板としているため、この2つの商品は(彼らにとっては)「空力のコントロール」という思考スタイルを応用することで作ることができる非常に近いものだと言える。


こういった思考スタイルの特徴には「言語で考えない」という点がある。
機構自体は、思考した結果を内省的に言葉で書くことができるが、今まさに思考している状況の中には言葉は無く、イメージで機構を組み合わせて動きを考えている。つまり、頭の中に具体的に歯車を思い浮かべて動かしているのだ。


このような言葉で考えない思考は、その状況自体を言語化できないがために、学校教育などの形式では教えることが非常に難しい。教科書やマニュアルを作ることができないため、師匠と弟子という密な関係性の下で口伝によって伝えるしかない。
見て、経験して身につけるしかない。


というわけで、こういった「言語で考えない」思考技術を身につけるためにはかなりの労力やコストがかかってくるわけだが、普通の人にとっては困難な問題解決が、この「言語化できない思考技術」によってできるため、身につけた人の人材としての市場価値はかなり高くなるはずだ。重要なのは、この思考技術によって解決できる問題の深刻さとレア度だ。


つまり、こういった問題解決に優位な差のある言語化できない思考技術を身につけている人間のことを「プロフェッショナル」と呼ぶのだ。プログラマー、料理人、デザイナー、エンジニア、スポーツ選手、それはもう様々な職業において、「言語化できない思考」は存在する。


自分の関心は矛盾するようではあるが、こうした「言語化できない思考技術」をどうにか言葉にする、理解する、使えるようにするというところにある。
佐々木正人著「時速250kmのシャトルが見える」でも示されていた通り、行為の記述を集積させることによって、その一端を浮かび上がらせることができるのではないかと思っている。


そして、こうした未知のものを言語化するという行為こそが、「研究」の本質であるのだと思う。まだもう少し時間がかかるとは思うが、新しい思考技術を言語化しなんらかの形で表現することに挑戦したい。

2012/03/05

パックを逆から開いてみると


ジャスミン茶を愛しているので、通勤時にはいつもコンビニでジャスミン茶の紙パックを買っている。紙パックを買っている程度だから、本当はジャスミン茶のことを愛していないのかもしれない。でも好きだ。

さてそんなことはさておき、今日もジャスミン茶をごくごくと飲み終え(立派な社会人は、紙パックにストローを直接刺して飲んだりはせず、コップやカップを使います)、いつものようにそのままゴミ箱に畳んで捨てようとしたのだが、なんとなく注ぎ口の反対側を開けてみるとこんなものが現れた。


「リサイクルありがとう。」

紙パックをリサイクルしようとする人が、こちら側の口を開ける(これはリサイクルする人は必ずする行為)ことを前もって見越して、予め印刷しておいたというわけだ。

印刷された文字を読みながら、人の行動を予測して動くというのは、サービスの本質なのかもしれないなと、考えていた。
このサービスという言葉の意味を大辞林で調べると「相手のために、気を配って尽くすこと」と書いてある。
もう少しだけ深く突っ込んでみようと、サービスという言葉の語源を調べると「Servitus(奴隷)」という言葉にたどり着いた。
つまり、どんな人でも、誰でも、等しく(ある条件下において)、労働(またはそれに準ずる価値の行為)を提供するのが"Service"という言葉の本質ということになる。そこには「気を配る」といった感情の要素は、無い。

ということからもう一度考えてみると、「リサイクルありがとう。」という言葉を予め印刷しておく行為は、本質的な意味での"Service"にかなり近いとも言える。誰にでも等しく、謝意を伝えられるように、人の行動を予測して動いておく。

日本語の「サービス」という言葉は、たぶん英語でいうhospitalityに近い。
リサイクルしたいなっていう気持ちはhospitalityに近い気持ちが無いとできないと思う。
義務やServiceではたぶん、無理だ。

だから、サービス業は成り立つが、ホスピタリティ業は成り立たないし、サービス業にホスピタリティを求めるのも少しズレている気がする。

さて、このブログを書く行為はサービス?ホスピタリティ?果たして何でしょうか。

2012/02/27

一回道具を介す


ある日、会議から戻ると、会社の自分のデスクの上にこんなものが置かれていた(写真)



ボタンを押すと、パンダ風のフィギュアのお腹がスロットのように回転し、グー、チョキ、パー、笹(!?)の4つのうちのいずれかが出るという機構になっているので、ジャンケン遊びができるというおもちゃだ。

もちろん、自分の手を使ってジャンケンをすれば、こんな道具なんて全く必要が無い。
でも、敢えてこういうものを使う。

一回道具を介して表現する。

効率という意味では、明らかに無駄なんだけど、何故か、それが、面白い。
(正確に言うと、出す手がスロットになっているから、自分で選択して出すのとは違うゲーム性がじゃんけんに生まれるということがあるが、本質とはズレるので置いておく)

これを触った時に、「面白さは、効率とは別の所に超然と存在している」ものなのだと改めて気づいた。

似たような構造のものが他に無いかと身の回りのものを探してみると、例えばマジックハンドというものがある。
物を人に渡す時に(失礼とかそういうのは置いておいて)敢えて手で渡さず、マジックハンドで渡した時のザワザワした気持ち。

道具を介すということは、自分の手のコントロールレートを一旦下げるということだ。
下がったコントロールレートに脳や身体が適応しようとする過程は、おそらく私達にとって、喜び(快感・楽しさ)を伴うものなのだろう。
それは、習得・学習というのが本質的に「楽しい」ものだということの証明にもなる。

新しい体験、違和感のある体験をできるだけ多くしよう。
その都度、脳や身体は学習し、新しい喜びや発見をきっと与えてくれるはずだ。

2012/02/24

たたすたたたげたた(ヒント:たぬき)


Twitterのタイムラインなどでたまに見かける「検索避け」という概念は結構面白い。

す/げ/し/ゅ/ん/い/ち

上記の文字列は、当たり前のように「すげしゅんいち」と読むことができるわけだが、
文字の間に/(スラッシュ)を入れると、こちらも当たり前のことなのだが「すげしゅんいち」という検索では引っかからない。

私達の目から見たら、大した違いの無い文字列のように見えるのだけれども、質的には全く異なる物になっている。
当たり前の事をもう一度書くが、視覚的な意味把握と文字列解析は違う。

私達は/(スラッシュ)と意味のある文字列を瞬時に分別して「無視する」ことができるわけだが、コンピュータは/(スラッシュ)も文字列の一つとして扱ってしまうので無視できない(検索避けの条件を予めプログラムしておけばいいとかそういう話は面白く無いのでここではしません)。
これは、2次元的に面で文字列全体を把握し、意味を捉える視覚能力と、1次元的に線で文字列を捉える解析システムの違いとも言える。
面で捉えれば、意味を把握できるが、線だと1文字ずつ逐一処理する必要があるために、/(スラッシュ)も意味を把握する必要が出てきてしまう。

さて、では面的に意味を捉えられるみなさんの視覚能力に挑戦してみることにする。以下の文字列を読み取ってもらいたい。


たたたこたたれたたたはたたたたたよたたたたためたたたたたるたたたかたたたたなた



今度は読み取るのに、かなりの負荷がかかったのでは無いだろうか。
記号から文字になった瞬間、私達は無意識に意味を読み取ろうとしてしまうため、
文字を記号として捉えられないがゆえの負荷が起こっている。

話を元に戻そう。
「検索避け」とはつまり、文字列にノイズを入れても、面的に意味を把握できる人間の認知能力に依存することで、特定の意味を保持することができる現象を利用した技である。
意味の保持やノイズの除去というのは実際にはかなり難しい技術だろうと想像できるのだが、人間を介することで、いともあっさりと実現することができる。

このように、敢えて人間の認知能力に依存することで(コンピュータ)システムの裏をかくという構造は、面白い。

未来の想像力を創造する

会期も残り少なくなってきたので、今参加している展示について、少し書いておくことにする。


「100年あとの世田谷」というタイトルの通り、100年後の世田谷がテーマなわけだが、
僕はそのテーマに対して、「人はどうすれば『新しいリアリティ』を獲得できるのか」という観点で試行錯誤していた。

人は、様々な感覚器を通じてリアリティを獲得する。現実には存在し得ないような現象でさえも、感覚器に与える情報によってはさも現実に存在しているかのような表象を得ることができる。AR(Augumented Reallity)やVR(Virtual Reallity)はまさにそういった「新しいリアリティ」を獲得させるための技術として研究・進化してきた背景がある。

しかし、今回はそのような技術は利用しなかった。高度な技術では無く、できるだけシンプルな形で「新しいリアリティ」を獲得させるための方法を模索した。

「100年後という膨大な時間を、どうすればリアリティを持って、具体的にイメージできるか」という思考は、「100年後がどうなっているかというより、どうすれば100年という時間を体感できるか。」という徐々に具体的な形へと深化していった。

つまり、「人間の想像力」を発現させる、呼び起こさせる、創造させる装置をつくろうと思ったのだ。このような思考・試行の結果たどり着いたのが、今回の展示である。

2月26日まで、三軒茶屋の生活工房ギャラリーで展示されているので、機会があれば是非、ご覧ください。会場にある解説パネル用に書いた文章を、以下に再録しておきます。

「圧縮された100年」
Parametric Speaker, Digital Audio Player, 2012.

ここから聴こえてくるのは,世田谷の街の環境音をはじめとした様々な音声に対して,元の速度からだんだんと早送り(時間の圧縮)をし,最終的に約1521倍速にまで到達させた音声です.この約1521倍速という数字は,100年という膨大な時間を本展示の会期(24日間)の時間に圧縮するという設定で算出しています.

私たちのほとんどは,100年という時間を実際に体感したことはありません.おそらく(革新的な医学や生命科学の進歩が無い限り)今から100年後の音を聴くことができる人もいないでしょう.この膨大な100年という時間を経過した世田谷を想像する手がかりにするため,音という媒体を用いて時間の圧縮実験を行いました.

お聴きの通り,圧縮された音からは,元々の環境音に入っていた話し声や車の音などといった「個性」は全て剥ぎ取られ,ただのノイズとなってしまっています.
にもかかわらず圧縮された結果が無音では無いのは,私たち自身を含めたこの世界が,生きて活動していることで,常に何らかの音を発していたからです.

100年という時間は,私たちのパーソナルな行為を全て剥ぎ取ってしまうほど膨大です.しかしその上で私たちが100年後に遺せるものには,一体何があるのでしょうか. 


2012/02/18

新しいPhotoshopプラグイン


今日から小伝馬町のCULTIVATEにて開催される、THAI GENERATOR展のオープニングに行ってきた。

19人の作家が選んだネットに落ちている画像を紙に出力し、タイの贋作屋に持ち込み、描いてもらったものが展示されている。

自分も1点画像を提供したのだが、癖のある各人によって選出された癖のある画像がタイ人の目線や技術によって、思わぬフィルターや変化がかかっているのが非常に面白い。単なる油絵の展示という範疇を明らかに超えている。
そもそも「ネットで拾った画像をタイの贋作屋に持ち込んで描いてもらう」という企画を思いついた時点で勝ち(どうやっても面白くなる)という、企画展の姿としては超王道の正解がバシッと出されているので、お時間ある方は是非見てもらいたい。

さて、展示を見ながらぼんやりと、「今回の展示をきっかけに、タイ人がもはや新しいPhotoshopプラグインになってしまった」という事実を、我々はどう受け止めるべきかということを考えていた。

デジタル、アナログはもはや関係ないレベルで、「プラグイン」という概念を表現に応用できる世界に私達は、今、いるのだ。
コンピュータ由来の概念が、表現方法として、コンピュータを超えた世界で適用される世界に私達は、今、いるのだ。

コンピュータ由来の概念をどのように実世界の、所謂レガシーな表現や媒体に適用していくか考えることで、「コンピュータにとっての次の表現」の在り方の一つを導き出せるのではないかと考えている。

2012/02/17

おいしいかつお節はおいしいそばつゆになる

今日の昼食べた立ち食いそばが美味しかったことを、夕食のラーメンを食べながら思い出していた。

そのそば屋は、かつお節の会社が経営しており、自社の美味しいかつお節から作った「つゆ」や、セットのおかかご飯をその店の「売り」にしている。
実際に、打ち立てのそばと特製のつゆはとても美味しく、五百円未満で体験できるレベルでは無いコストパフォーマンスの良さをみせていた。

ビジネスモデルとして考えても、このそば屋はとても面白い。
つまり、「自社商品(かつお節)のサンプリング」をビジネスとして成立させているということだ。
普通はタダで配っているサンプリングを売り物にしてしまうという構造はとても面白い。

「そばやおかかご飯が美味しかったから、今度かつお節も買って帰ってみようかな」と少しでも思わせられれば大成功だ。しかも損なくお金を取ってそれができるのであればこんなに良いことは無い。

こういう、本業のためのサンプリングビジネスに近いようなものは、探すと結構ある。
例えば、国立ファームがやってる「農家の台所」やバンダイがやっている託児所なんていうのも、その一つと言ってもいいだろう。

ただ、あまりにそのサンプリング商品の出来が良すぎてしまうと、わざわざかつお節なんて買わずに「ここでそば食べればいいじゃん」となってしまう可能性もあるので、世の中なかなか上手くいかないし、だからこそ面白い。

2012/02/16

一つで二つの意味

既存の丸穴(大)パンチを4分の1だけ穴が空けられるように改造して、普段使ってるノートの角を切り落としている。


これはよくスケジュール帳等にある工夫だが、書き込んだページの角を切り落とすことで、栞が無くとも、最新のページをすぐにめくることができる。(栞は別のページを開くために使うことができる)
このやり方はとても便利なので、世界中のありとあらゆるノートに実装して欲しいと思っているのだけど、使っている内に、自分は無意識の内に別の意味も見出していたようだ。


上の写真のように、閉じた状態で見るとよく分かるのだが、使ったページの角を切り落としているわけだから、今ノートをどのくらいまで使ってるのか、一目見て分かるメーターの役割にもなっているのだ。
特にこのノートは、1ページ1アイデアを書くメモとして使っているため、「もうこれだけアイデアを考えたのか!」「あとこれだけ考えればこのノートを終われる!」といった達成感やモチベーションを引き出すきっかけにもなっている。

このように、一つの状態が二つの意味(今回の例では栞とメーター)を持つものはとても面白い。
特に、意図して二つの意味を持たせようとしたからでなく、無意識に複数の意味を見つけ、無意識のままに活用しているところが面白い。考えるより先に、身体が見つけている知恵だ。

少しこのような視点で自分の普段の生活を振り返って、一つで二つの意味を持つものを探して見ると、意外な発見や発想のヒントが見つかるかもしれない。

2012/02/15

五円の価値は


今朝通勤中、珍しく静かな駅の構内で「チャリーン」という音がしたので、「金だっ!!!!!!!」と音のした方を見ると(金の音になぜ人は敏感になるのかは、今日のテーマでは無いので掘らない)、ちょうど今まさに五円玉を落とした(と思わしき)女性が、一瞬落とした五円玉を確認した後、「私には関係ないわ」とでも言いたげな感じでクルッと踵を返し、拾いもせずに改札に向かおうとする一連の流れが目に入った。

その人は一瞬で、自分が戻って拾い上げる行為と五円の価値を秤にかけて、戻らない(拾わない)方を選択したわけだ。
その選択にはおそらく「五円」という金銭的価値と、引き返す労力、五円を拾う行為を恥ずかしく感じる気持ちといったものが反映されているのだろう。

普段は金額が付かない、報酬とは全く関係ない行為と「五円」という具体的な金額が秤にかけられてるのは、とても面白い。
人の価値観というのは、こういった価格や報酬(見返り)の無いものと対峙した時に始めて露見化される。プライドや大事にしているものが、うっかりあらわになってしまう。

例えば、今日自分がやった仕事に単純に報酬を与えるとしたら、いくらの金額を付けられるかやってみるといいかもしれない。
自分のような会社員の立場だと、中々そういう機会は無いのでとても新鮮な気持ちになるはずだ。
「今日の自分への報酬」を定義するためには、仕事の内容を丁寧に振り返る必要があるし、それは自分にしか出来ないことなのか、誰でもできることなのかという希少性(市場価値)も考える必要がある。結果として、自分の仕事の価値や意義を見直すことができるはずだ。

ちなみに、自分なら、落とした五円は拾います。

2012/02/14

何でも項目にする

以前撮った写真を整理していたら、気になるものが出てきた。


この写真は、とある居酒屋の伝票だ。何でこんなものを写真に撮ったのだろうと、よくよく見てみると、「お通し」の項目がMとLで何故か二種類ある。

これを見て、ようやく、何で撮ったのか思い出した。

別にこの店では「お通し」が食べ物として二種類あるわけではない。実はこの伝票は「お通し」の項目を参照することで、後で「客が何人であったか」と「男女構成」が分かるようになっているのだ。
この日は男が2人、女が1人の3人で店に入った。確かに伝票の「お通し」を見ると、M(ale)が2、F(emale)が1と表記されている。

データの取り方として、このように特別な入力欄を作らず、既存の注文を取るワークフローの中に突っ込んでしまおうという考え方は、とても面白い。
商売をしようという側からすると、こういった情報は非常に重要だ。おそらく人数と男女構成と、入店時間・曜日、そして頼んだメニューというのは合わせて解析しているはずだ。その結果が新しいメニューやロスの無い食材の発注等に活かされているのだろう。

そして、このようなことを面白いと思うと同時に、こうやって知らず知らずのうちに日常の生活の中で多くの情報が取られているということもまた垣間見える。

個人情報とは、私達が意識して記入したりするものだけでない。あらゆる行動が全て、個人情報になる。そしてこういった無意識に取られる行動・行為の個人情報こそが、誰も気づいていない新しいビジネスのチャンスにも新しい犯罪の温床にもなる可能性がある。

無意識であるということは、その両面があるということだ。

2012/01/04

盆栽と創造のアプローチについて

昨日観た盆栽の展示( http://designcommittee.jp/2011/12/6801953.html )について考えている。
あそこで展開されていた作品を大きく分けると(もちろん、全く知識の無い自分が勝手に分類しているという前提だが)以下の3つに分類できる。

1.現実にはほぼお目にかかることは出来ない、(美しさという観点で)理想の植物の形態を、人間の管理下で具現化させたもの(idealization)。

2.実際の美しい林や森をスケールダウンさせ、盆に定着させたもの(sampling)。

3.敢えて過酷な環境を設定し、植物の可能性を引き出し、そこに美しさを見出したたもの(cultivation)。 

ある意味この3分類は創造の典型でもある。 
1はつまり、自らの中にある理想化されたイメージの世界を形創ることであるし、
2はリファレンス、つまり先人のアイデアをブラッシュアップする形で作ることに近い(だからこそ、最もディテールのクオリティが必要なのはこれ)。
そして3つ目は、新しい組み合わせによる突然変異や意外性を求めるやり方だ(これをやるには、予めきちんとした評価軸を立てる必要がある)。

同じジャンルの表現であっても、こうした創造のアプローチの違いによって、作品に大きく違いが現れてくるのは、実に興味深い。

盆栽以外でも、このような視点で整理してみると、色々新しいものが生み出せる(露見される) のではないだろうか。