2011/09/16

「わたしのすがた」の「わたしのすがた」

2010年11月23日(火)勤労感謝の日、17時の回で予約して見た。

最初に、第一、第二会場までの地図を渡される。

第一会場は、出てすぐの校庭の芝の中。大きく、丸く、深い、極めて人工的な、だが、何らかの力が働いたかのような(大友克洋の童夢や七夕の国みたいな)穴が空いている。隣には聖書から引用された一文がパネルに貼ってある。最初からかなり不穏な空気。
校門を出て、第二会場へ向かう。すぐそこで落ち葉をはいて集めている人がいる。全く関係ないが、何か関係あるんじゃないか。街全体が、舞台装置になってしまっている。もう、飴屋法水の術中に嵌っている。

第二会場。だいだいの家。民家の廃屋。先ほどの地図を手渡す。妾が元々住んでいたという設定の家。だいだいの木が目印でだいだいの家とのことだが、木はごっそり抜かれている。その穴も第一会場のミニチュアのような人工的な丸い穴。屋根には蜂の巣。家の中も不穏な空気。生活用品がそのままに朽ち果てているところから、引越しではなく、不慮の事故により家主が喪失したことを連想させる。

第三会場までの新しい地図を受け取る。半分の教会。地図を渡す。元教会から元寮として使われていた。という設定。数十年前の宗教家の手記や肉声(おそらく架空だが、本物感は凄まじい)が置かれている。ある部屋には象徴として大きな蜂の巣。壁には「人を傷つけてしまった」と指で書いた大きな血文字。
奥に、一人ずつはいる懺悔室。鉛筆で、誰も見てないところで、自らの罪を告白する(壁やカーテン、好きなところに書く)。中々書けない。が、正直に書く。恋人以外との性行為に快感を覚えた女性の独白が結構多いことに驚く。自分と向き合い、すごく嫌な気持ちに。入り口付近にも、また懺悔室。同じ仕組み。今度もたいしたことは書けなかったが、みんなもそれ相応の苦難があって、それでも日々を生きている(そしてこのF/Tにも来ている)ことに、逆に勇気が出る。悩みや苦しみを抱えた自分は一人じゃない感じ。この心境の変化には驚いた。(苦しみ自体の根源からは開放されないんだけど、同じように苦しみをみな抱えているという認識自体が、救いになったということなんだろうと、今思う。丁度仕事関係や将来のことについて色々深刻に悩んでいたので、それともリンクしたのだが)
そもそも、あの部屋で、何でそこまでちゃんと自己と向きあおうとしたのか。あそこで書かなきゃいけない気分になったのかっていうことにすごく興味がある。

最後、第四会場までの新しい地図を受け取る。少し遠い。廃墟になった、休日診療所。日は落ちて、怖い。入り口で懐中電灯を受け取り、照らしながら移動。入っても照らしても、暗くて、怖い。待合室のテレビが付いている。最近のCMっぽいから、つけっぱなしって設定(それもまた変だが)なのかなあとか思ったら、「行方不明になっていた診療所の看護婦が川の近くで変死体になって見つかった」とかいうニュースショーの録画映像が流れてきてびびる。意図されたものだということを再度察する(偶然だったらまずすぎる)。奥の部屋の中には、土の山が。別の部屋にも土の山。他にも小分けにされた土たちがある。最初に土の山を見た瞬間、第一会場、第二会場(だいだいの木)、第三会場(蜂の巣の部屋)の穴の土だなと思う。それぞれの部屋の近くに、聖書の抜粋文が貼ってある。関係性を見出さずにはいられない。物語のような宗教的体験のような何かが、頭の中で醸成されていく。二階へ上がる。聖書の中の話も少し進んでいる(キリストの磔までのストーリーらしい。よく分からないけど)。機織り機と大量の金髪。不穏なモチーフが山盛り。聖書の話と微妙にリンクさせながら、死の匂いを漂わせる。奥の部屋。ドアを開けて閉める部屋(そう指示が書かれている)。中には簡易ベッドの上に布。暗い部屋で離れたところから見ると、聖骸布を連想する。近づいてみると、(聖骸布のような)人と推測できる形に骨(何の?)が並べられている。近くにいると電子音。びっくりする。そこから出て、奥へ。キリストの衣服が剥ぎ取られたという聖書の文と病院の患者の残した衣服等が並んでいる。日記はキリストの日記みたい(文章は手書きの日本語で、内容がソレ)違和感。最後、さらに三階へ。登っているときのクライマックス感ヤバい。勝手に終わりの感じがしてくる。聖書のストーリーとゴルゴダの丘?の曖昧な知識から連想される。のぼりきった所でまた聖書の引用っぽい文が貼ってある。もう終わりにしよう。帰ろうという内容の文章。本当に聖書の文章かは知らないが、そういうふうにずっと思っていた。まだ思っている。
そして降りて診療所の入り口へ。
最後にリーフレットを渡される。

出て開く。

そこに、一文。

わたしは
日本に生まれました。

わたしは
無宗教、
無神論者です。

と書いてある。愕然とする。物語を生成させていたのは、自分自身。勝手に宗教的な気分を思い起こさせられていただけだったのかと気づく。物語なんて、最初からなかった。あるのは自らの知識と記憶から紡がれた、誰のものでも無い、物語であったのだ。だから、その、宗教的な感覚やドラマ感自体が「わたしのすがた」であったのだと思う。
人間は物語を無意識にでも紡がざるを得ない生き物であると同時に、辛さや苦しみだって(喜びもだけど)その程度でしか無いんだと笑い飛ばすことだってできる。ということなのだろうか。わからない。そう捕えることができるけど、正しいことなんて無いから。飴屋法水はそうとう喰えないおっさんだということは分かった。そこまで見越して完璧に設計していることも分かった。でもわからない。もう少し考えよう、色んな人と、話そう。

ちなみに、自分も、日本に生まれた無宗教、無神論者である。