部屋にGが出た。
最新兵器で戦ったが、逃げられ、クローゼットの中に消えた。非常に不快だし、自らの戦闘の不甲斐なさを恥じる思いでいっぱいだ。
今年は全く現れてなく、もう夏も終わるので正直舐めていたということを認めざるを得ない。
そして、この遭遇の事実により「部屋のどこかには奴(ら)がいる」という前提の中、私は今後暮らしていくことになる。
これはつまり「常に有事=戦闘状態」が前提の生活が始まったということだ。帰宅して、部屋の明かりをつける時の緊張感や寝る際の不穏な感じから、逃れることが出来ないのだ。
奴らは、いつどこで現れるかわからないのだから。
常に奴らの事を怖がりながら、如何にして恐怖の元になっている奴らを殲滅させるか、真剣に考えてしまっている。
この構図には既視感がある。
前述の文章の「G」や「奴ら」を「テロリスト」や「放射能」と置き換えて読み直して見て欲しい。普通に読めると思う。
問題のレベルを問わず、「見えない恐怖」ほど怖いものはない。アメリカの気持ちがわからなければ、放射能の恐怖に感情移入出来なければ、もし自宅にGが現れたらと考えてみる事で、自分の心の中にも具体性が出てくるかもしれない。問題は違えど、心理構造は一緒だから。
そして、その上で、見えない恐怖に打ち勝つためにはどうすればいいのか考えてみる。
イタチごっこを繰り返しながら敵を殲滅する?殲滅できたなんてどうやって確認するの?
それとも見て見ぬふりをするうちに慣れていく?慣れて健康に問題は無いの?
答えはまだ分からないが、ただ一つだけハッキリしてるのは、僕が次の週末に部屋を片付けて、バルサンを炊くということだ。