仕事で、毎月乳幼児向け(学習)雑誌に目を通す。出稿した広告の確認という目的もあるが、それだけではなく、中の記事や他社広告に関しても目を通す。
ページを繰っているとあるところで手が止まった。
上の写真は、その止まったページを撮影したものだ。パンダの眼だけが丸く開いていて、その繰り抜かれた部分にちょうど、人間(子ども)の眼が嵌(はま)って見える。
このあまりの異様さと気持ち悪さに、思わず手と眼を止めてしまったのだ。
ページをめくると、下の写真のように男の子の写真が入っている。
「いないいないばあ」の構造に近い遊びのページだが、そんなことはどうでもいいくらい眼のインパクトがあった。
よく「眼力(めぢから)」と言われるが、人間の眼の持たらす情報量は凄まじい。
試しに、さっきのパンダの眼の部分に、下から、本来ありそうな眼を書いた紙を差し込んでみた(下の写真)のだが、ごくごく普通だ。すんなり見える。が、眼には自分がページを繰る手を止めさせるほどの力は無い。
「手を止めさせる」ということが第一義におかれる場合、端正なデザインより奇抜なもの、眼力が強いものの方が、ハッキリと目的を達成することができる。
しかし、手を止めてからはどうだろうか。今回の場合も手は止まったものの「気持ち悪い」と非常にネガティブな感情しか巻き起こらなかった。
せっかく手を止めさせることができても、これではコミュニケーションは成立しない。
もちろん、このバランスを取ることはとても難しいのだが、コミュニケーションに関わる立場として「眼力」だけに囚われないよう自戒したい。