2011/08/31

コピーは劣化する

会社で広告のラフを作るために、コピー機でコピーをとったり、コピーのコピーをとったりしていた。
出力された書類を眺めていると、当たり前のことなのだが、オリジナルよりコピー、コピーよりコピーのコピーの方が、劣化していた。

当たり前のこと?
なぜこのようなことが起こるのか。
コピー機のメカニズムについて簡単に調べてみると、「帯電」→「露光」→「現像」→「転写」→「定着」という6つの工程でなっている。
ざっくり書くと、画像に合わせてマイナスの電荷を帯びさせ、プラス電荷を帯びたトナー粒子を吸着し、紙に定着させている。
(詳しくはここに分かりやすく書かれている。http://www.fujixerox.co.jp/company/saiyo/2012/goods/skill/ )

そこで、10回ほどコピーを繰り返し、劣化の度合いを確認して見ることにした(画像)。
 
画像を見て分かると思うが、世代を経る毎にバラバラに劣化するのではなく、
一画目の書き出し部分のように、早い世代から劣化の兆候が見えた部分が際立ってくる。それでも文字の輪郭線はしっかりと残っているため、「あ」であることは失われない。

もちろんこれは、コピー機個体毎の特性(フタがきっちり閉まらない、感光部分の設定など)で変化する要素でもあるのだが、「世代を追う毎に劣化部分が際立ってくる」というのはとても面白い発見だった。

情報には特性があって、劣化し易い部分と、劣化してもなお堅牢に保持される部分がある。これは、以前紹介した"Dora Error"でも触れていたことだが、改めてこういった人間を介さない場合で視覚的に示されると、とても興味深い。
まだ試みてはいないが、おそらく伝言ゲームのようなものでもこういった劣化の特性は現れてくるだろう。

情報の劣化の特性を知ることで、「あえて劣化させる」もしくは劣化というプロセスをわざと経て、「堅牢な情報の骨格部分だけを取り出す」という新しいビジュアル表現の方法が有り得るかもしれないと思っている。

2011/08/30

早口になる

最近よく人に合って話すことが多い。その際に話している様子を観察していると、ある時突然、話すスピードが上がることがある。
どういった状況で、話すスピードが上がっていたのか思い返してみると、

1.自分が詳しく知っている(知識がある)という話題になった時
2.その際に、専門用語が数多く出てくる時

という二つの条件がある時に、話すスピードが上がるようだ。
話すために、知識を脳からロードする回数が多くなってくると、芋づる式に言葉が溢れ出てくるため、
それらをすべて捌ききるために、話すスピードが上がるということなのだろうか。

聞く方はその情報量に圧倒されて、結局何も伝わらないということがよくある。
これは自省を込めて書くのだが、自分が詳しく知っている特定の分野について話すほど、
いつもより意識的にゆっくり話すようにした方が良い。
コミュニケーションに適切な情報量を探る訓練が必要だ。

2011/08/29

レイアウトという概念

ここ数年「レイアウト」という概念について考え続けている。
この言葉を「世界の情報を再構成することで、全く新しい価値を生み出す概念」として再定義することで、新しい可能性が見えてくるのではないかと思っているからだ。
正確に言うと、「生み出す」という言葉より「見い出す」と言った方が近いかもしれない。
既にこの世界には存在してるのに、まだ誰にも発見されていなかったり、意識されていないような関係性を見つけ出そうとしている。


上の画像は、通勤途中に撮影した道端の写真だ。
普段バラバラに置かれている状態が「自然な」ゴミが、整理整頓されている。
ゴミがゴミでなくなり、とても「キレイなもの」に見えてくる「異常な」状態だ。
「異常な」状態は「自然」には起こらないので、こういうものを見ると、誰かの意志(メッセージ)を感じてしまう。

レイアウトを操作しキレイに並び替えることで、ゴミは新しい価値を与えられたメディアに変質する。
下の画像は集めたゴミを種類別に仕分けられた写真だ。1枚目より明確な目的と意志を感じる。


レイアウトを変更することによって生まれる価値を、表現の主眼に置いているアーティストもいる。




上の二つの画像はデッキブラシやモップの配置を操作することで、全く新しい美しさを獲得している、Michael DeLuciaの作品だ。
ここでは紹介しないが、冨井大祐( http://tomiimotohiro.com/selectedworksj.html )もレイアウト変更による新しい価値を提示している素晴らしい作品を数多く制作している。

これらの作品に自分が強く惹かれているのは、発想や物の見方が、とても純粋な形で抽出されているからだと思う。価値が生まれる瞬間は、最も尊い瞬間の一つだ。

2011/08/28

140字

140字で書けることは意外に多い。今日は高円寺で友人の作るカレーを食べに行ったのだがGPSが狂って道に迷ってしまった。しかも今日は祭りの出店でランドマークになるものも見当たらないという有様。仕方が無いので電信柱の住所を頼りに番地を1つずつ刻んで移動した。ちなみにカレーは辛かった。

2011/08/27

間もなくこの番組は終了です。

週末の夜は大抵作業をしている。まとまった時間が唯一取れるタイミングだからだ。

作業をしているときには、多少の喧騒の中の方がはかどることを発見したので、TVをつけている。大抵は録画しておいた番組やDVDだったりするのだが、今日はBSのあるチャンネルを流していた。
そこでは通販番組を延々とやっており、内容には全く興味がなかったので当初の意図通り、ノイズとして放っておいた。

ところがしばらくすると、紹介をしていた司会?が言った言葉がついつい気になって、作業を止めてしまった。

「間もなくこの番組は終了です」

唐突に発せられたこの言葉に、驚きを隠せなかった。
ふつうテレビ番組の中で「もうすぐ終わります」なんて言っているのは聞いたことがない。

「長々とすいません、もうおわりますから、もうちょっとだけ我慢してください」なのか
「もうこの商品の申し込み終わっちゃうよ?買えなくなっちゃうよ?急いで!」なのか

まあふつうに考えたら、後者だろう。

終わり(期限)を告げることで「希少性」を高め、購入へのプレッシャーを煽るというのは、人間の心理を突いた技術の一つだ。
ロバート・B・チャルディーニ著「影響力の武器」でも1章を割いて「希少性」について語られている。

つまり、人はその「モノ自体の機能」が欲しいと思っていなくとも、「もう手に入らなくなってしまうモノ」を欲しがることがあるのだ。

通販番組やカタログは、このような人間の心理を突いた広告技術のオンパレードなので、広告業界ひいてはコミュニケーションということに関心のある人達は、
メディアに持て囃される「クリエイティブな広告」より、こういったものを見ながら「何に自分の心が操作されようとしているのか」を見つめると広告の本来の目的や意義、効果について考えるきっかけが得られると思う。

2011/08/26

Rewards / Dynamic Information Design

今日は、仕事でまとまった数の郵便物を送る必要があったので、その発送作業をしていた。

封筒にラベルを貼り、紙を三つ折りにし、封筒に紙をいれ、封筒に封をするという極めて単純な作業だが、とにかく量がある。
こういう単純作業をやっていると、いつも必ずストレスになるところが出てくる。例えば、前後の作業の流れと封筒の位置や向き等が噛み合わず、無駄な動きが増えイライラしてくる。

ストレスになる度、配置を調整していくのだが、その都度あきらかに効率が良くなっていくのがとても面白い。

システムが効率化され、動き自体も慣れていくことでどんどん作業速度が上がっていき、もうすぐ最適化できそうだなっていうところでいつも作業は終わる。

終わろうとする瞬間にはいつも、「もうすぐ終わる!!!!!!」という気持ちと「あーあ、終わっちゃうのか…」という少し残念な気持ちの両方が混ざっている。やる前は「こんな単純労働なんて自分の仕事じゃないしやりたくない」と思うのだけど。
試行を繰り返しながらその場で効率化・高速化していくというのはとても楽しい。


脳を中心とした人間の神経系には、報酬系と呼ばれる系がある。これは、何か欲求が満たされた時に快楽を与える神経系のことだ。
その欲求にも、短期的なもの(例えば、喉の渇きや食欲といった本能的なもの等)と長期的なもの(承認欲求や愛などといった社会的なもの等)がある。

前述の例だと、短期的な報酬(上手く体動かせて、気持ち良いという生理的快感)で行為をドライブさせながら、結果的に長期的な(とまでは言えないかもしれないが)報酬を得ることに繋げることができたと思う。

人が何か行動を起こす時に一番大変なのは、「はじめの一歩」を踏み出すことだ。
上手く心理的障壁を下げて「はじめの一歩」を踏み出すためには、「目に見えて出るできるだけ短期的な成果」レベルまで行為や目標を分解すると良い。一つの目標達成が、次の行為をうみだし、その繰り返しで最終的な目標を達成することができる。


教育には、教育方法のデザインつまり、報酬の与え方のデザインが必要だ。
だから、変化を伴う時間軸をベースとしたデザイン概念(≒動的情報デザイン)というのは、人間の行為を設計するために非常に重要になってくると思っている。
今後は、自分の経験や能力のかなりの部分をそこに注ぎ込んでいきたい。

2011/08/25

静けさの境界

朝、地下鉄に乗ろうと駅に行くと、ちょうどいつも以上にすし詰めの満員電車が発車していくところだった。

「今日は雨だから混んでいるのか、嫌だなあ」と思いながら次の電車を待って乗ろうとすると驚いた。さっきまでの満員電車が嘘のようにガラガラで、座席まで空いていたのだ。

「いつもはこの時間も満員で酷いのにどうして?」と思ったが、微妙なダイヤの乱れで乗客が集中し、このような狭間の電車が生まれたようだ。

ガラガラの電車による通勤は非常に快適で、わずか10分ではあるが、乗り換え駅にもなっている目的地に着くまで途中で乗客が増えて混むことも無く、仕事を進めることもできた。

そこには、台風の目のように奇跡的な静けさが漂っていた。
また体験したいなとは思うが、おそらくもう二度と体験できないだろう。狙って体験するなんて、まず不可能だ。

同じものや出来事でも、ごくわずかなタイミング・境界を境に全く違う様相を呈してしまうことがある。
生きていれば、境界があったことを後から知り、「あの時ああしていたら」、「あの時ああしなければ」と思ったりすることもたくさんある。
しかし私たちは、境界を意図して選ぶことはできないし、いつもそれは前触れ無くやってくる。

そう、あなたがこの文章を読んでいる瞬間も、何かの境界かもしれないのだ。

2011/08/24

今日の日付をご記入ください

撮影させてもらった子(のお母さん)にモデル代を支払うための事務処理作業をしていた。

事務所に所属していない、一般の子なので領収書を書いて送ってもらうのだ。
その時に書き漏れやミスが無いように、付箋で注意書きをつけておくのだが、自分で書いてて少し奇妙なことがあった。



日時を記入してもらうところに、下の写真のような付箋を貼った。



「今日の日付をご記入ください」

領収書を発行したこちらの日付より前の日付は書かないでくださいねということに加え、忘れずに記入して下さいということも言いたかったのだが、文章が長く分かり難くなってしまうので、無意識にこの文を書いていた。


よくよく考えてみると、この文章は奇妙だ。


この文章が書かれたのは「今日」、8/24なのだが、これを受け取った人が見て記入する時の「今日」は8/25以降になる。


「今日」という相対的な日付指定をしているため、書かれる日付は異なるが、意味的には全く正しいという奇妙な現象が起こってしまったのだ。

もしこれが絶対的な日付指定だった場合「8/25と書き込んでください」みたいなことになる。
これでは、いくら確実性が高いとはいえ、強制的に書かされている気持ちも生まれるだろうし、本来の日付記入の意味からも外れたことになってしまう。

一見曖昧かもしれないが、敢えて相対的な言葉を使うことで、書くがわは自分の意志を持って書くことができるし、書いてもらう側も欠かしてはいけないポイントは確実に抑えられるコミュニケーションができる場合もあるのだ。

「相対的・絶対的」な言葉の使い方は非常に興味深い。上手く使うと新しいコミュニケーションの方法が捕まえられるかもしれない。

2011/08/23

失われた感覚

玩具業界では、秋には年末のクリスマス商戦に向けて、新商品の発売が目白押しになってくるわけだが、もうこの時期になると、大抵の準備は終わっているので、慌てて何かに追われるということは無い。
最後の準備として今日は、新商品発売を知らせる手紙を一通ずつ手書きで書いていた。

ある編集者に向けて書いていた時、住所の「編」の最後の部分の書き順を間違えて、
本来13画目で書く横棒より先に14画目の縦棒を描いてしまった(画像)。
間違えたと言っても、ただ順番を間違えただけなので、「はいはいじゃあ横棒書きますよー」等と思っていたのだが、
急に横棒と縦棒どちらが二本だったから全くわからなくなってしまった。

いつもは問題無く書けるのに急に合っているか不安になって手が動かない。まさに字の形を脳が「失ってしまった」のだ。
これは読む時と書く時では全く違うプロセスが行われている事を意味する。
これまで、文字の形を視覚的に記憶していたと思っていたのだが、どうやら、文字の形を手の動き(ストローク)で覚えているようだ。
動きの順番が狂うと途端に文字の形が全くわからなくなってしまう。

冷静に考えてみると、以前紹介した「書字スリップ」のように書字行為は運動企画(身体を動かす手順)によってなされるので、ある意味当たり前の現象なのだけれど、文字の形が手順によって記憶と紐付けられているという事実を実感できた、とても奇妙な体験であった。

2011/08/22

鞄を買う

新しい鞄(ポーチ)を買った。蔵前にある小さな店で作られ売られてるものだ。文庫本が一冊入る程度のこの容量がちょうど良く、気持ちがいい。

昨年くらいから、意識的に持ち歩くモノを必要最小限だけに減らそうとしてきた。特に確たる理由は無く、単に気分みたいなものだと勝手に思っているのだが、通勤を徒歩にしたり、歩いて探索するのが好きなので、そこに最適化しようとしたとも言える。

わざわざ容量の小さいモノを選んだのは、鞄によって、持ち物に制約をつけたかったからだ。
サイズに余裕があったりすると、使用頻度はほぼ0に近いにも関わらず、「○○する時にこれはあると便利」と考え、なんでもかんでも鞄に詰め込む羽目になる。
自分も、小さな携帯用のハサミやのり等文具一式を鞄に入れて持ち歩いていたのだが、実際タダの一度も活用されたことは無い。

つまり鞄を変えることで、環境の側から、自分の行動に制約を付けたというわけだ。
思った以上にこの効能は大きい。何しろ色んな文房具を持ち歩きたいと思ったとしても、そもそもペン1本しか入る余裕が無い。しかもそのペンも、軸が太いものは入らない。
環境によって制約が付けられることで、持って行くべき優先順位を改めて見直すことができた。
とりあえずコレがあれば大丈夫というものだけに荷物を絞ることができた。

色んな可能性をあれこれ考慮して様々なものを持ち歩いていた時よりも、何が一番大切か見極め集中することで、余計な事を考えずに済むようになったため、逆に精神的には遥かに自由になった気がする。

制約が人の心を自由にすることもあるのだ。

2011/08/21

基準を変える

日々の重要な仕事の一つに分析、つまり様々なデータから新しい関係性や事実を見出して仮設を立て、検証をするというものがある。
データを精査していく作業自体は、論理的な思考に基づいて行われるので、大卒程度の論理的思考力を有していればそんなに難しいことではない。
この時肝になるのは、どの点に着眼してデータを見るかという視点だ。
一見関係無いようなデータの裏にある新しい関係性を見つけることで、誰も考えたことのない商品開発に近づくことができる。

例えば、新しい子ども用の傘を考える時に傘のことだけ考えるのでは無く、雨の日の子どもの交通事故率や防犯ブザーの普及率、平均的な通学の距離など組み合わせてデータを見ていくといったようなことだ。

こういった事を考えていたり話したりすると、「そんなの難しく思いつかないしできない」といった声をよく聞く。
「違った視点からものを見る」というのは様々な場面で要求される能力だが、その割にはこれほど「生まれ持った才能やセンスが必要」と思われがちな能力も珍しい。

これは何度も言うし書き続けていくが「視点を変えてものを見る」能力は、後天的な学習によって獲得する能力だ。私たちは「視点の変え方・ずらし方」を学ぶことで、様々な物事にも応用することができるようになっていく。

例えば、以下の写真を見て欲しい。


これは、赤青鉛筆が並べられた写真だ。ただし、並べる際に赤と青の境界を中心に並べている。
このように並べると、赤と青それぞれの減り具合を比較することができる。
また、並べる基準を鉛筆の先端に変えれば、今度は鉛筆全体の長さを比較することができる。

「長さ」という同じ尺度だが、基準(0ポイント)を変えてものを見るだけで、これだけ得られる情報の質が変わる。

大事なのは、「ああ、違う視点でものを見てる!!」という事例を見つけたら、どのように基準をずらしているのか、よく観察することだ。観察した上で、同じようなずらし方を他の事にも応用できないか試してみる。観察→収集→実践の繰り返しで、一つずつ身につけていこう。
一長一短で身につけることは難しいかもしれないが、ただ憧れたまま人生を浪費するより、よっぽど有用なはずだ。

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ハッキリ言ってこれだけでは何の役にも立たない。具体的な事例と結びつけた時に効力を発揮するものだが、
最後にブレインストーミングの考案者である、A・F・オズボーンによる発想のためのチェックリストをつけておこう
●転用したら?→現在のままでの新しい使い道は?
●応用したら?→似たものはないか?真似はできないか?
●変更したら?→意味、色、動きや臭い、形を変えたらどうなる?
●拡大したら?→大きくする、長くする、頻度を増やす、時間を延ばすとどうなる?
●縮小したら?→小さくする、短くする、軽くする、圧縮する、短時間にするとどうなる?
●代用したら?→代わりになる人や物は?材料、場所などを代えられないか?
●置換したら?→入れ替えたら、順番を変えたらどうなる?
●逆転したら?→逆さまにしたら?上下左右・役割を反対にしたら?
●結合したら?→合体、混ぜる。合わせたらどうなる?

2011/08/20

視覚的緊張感

演劇などのイベントを鑑賞すると、座席に多くのチラシの束が置いてある。
いつも開演前に一通り眺めて、「行ってみたい」と思うイベントと「デザイン的に取っておきたい」と思うチラシだけ持って帰るようにしている。
数多くのチラシを眺めていると、読みにくいものと読みやすいものにハッキリ分かれる。
これはデザインの「美しさ」とは全く関係ない。ただ、読みにくいものにはハッキリとした特徴がある。


突然だが、簡単な実験をしてみようと思う。
二つの図版を用意した(添付の画像参照)。
まずAの画像、「S」から「G」まで眼でたどっていってもらいたい。
できたら、次にBの画像でも同じように「S」から「G」まで眼でたどって欲しい。



さて、何が起こっただろうか。Aの方が「たどりにくい」と思ったのではないだろうか。
目でたどる際に、道の太さによってたどりやすさが明らかに違う。
道が細ければ細いほど、たどるには視線を一点に集中する必要があるため、ストレスを感じてしまう。

このような状態のことを僕は「視覚的緊張感」と名付けている。

前述のチラシの中でも、読みにくいと感じたものは共通して、このAをたどった時と同じような「視覚的緊張感」を感じていた。
「読めないのではなく、読むことはできるが辛い」というこのような状態は、読むという行為自体に意識が集中してしまうため、読んだ内容自体は頭に残らない。つまり、情報の伝達・コミュニケーションが成立しないということになる。

受け手は「美しい・カッコイイ」チラシなんて必要としていない。お目当ての演劇が始まるちょっとした待ち時間に、「おもしろそうだな、今度これ行ってみようかな」と思えるだけの内容と公演情報(日程・チケット取得方法)をサクッと得たいだけなのだ。

「視覚的緊張感」はグラフィックデザインの現場だけでなく、コミュニケーションに関するあらゆる場面で発生する。
「自分の意図を伝えて理解してもらう」というコミュニケーションの原理原則を忘れないために、以前ノートに描いたこの図を、たまに見て振り返るようにしている。

2011/08/19

かき氷

数日ほど実家に帰っていたのだが、去年、高校の最寄り駅に美味しいかき氷の店が出来たのを知って以来、帰省の度に寄るようにしている。
いつの間にか週末は1時間ほど並ぶ人気店になってしまったのだが、平日かつ雨だったため、すんなり入ることができた。

その店がなぜ人気かというと、日光の良い氷を使っているというだけでなく、食感が他のかき氷店と明らかに異なるからだ。
普通のかき氷は、ジャリジャリとした砕かれた氷を噛んで味わう食べ物というイメージがあると思うが、ここのかき氷は違う。
氷が薄くスライスされたような形で削られており、口に入れるとフワっと溶ける。味わうのに噛むという行為は必要ない。

この、フワっという食感を味わうために、みんな並ぶのだ。
いままでのかき氷のイメージとのギャップに人は喜び、美味しいと感じる。

新しいものとは基本的に既存のものとの違和感によって生み出される。「違い」が「価値」をつくるのだ。

つまり新しい価値を生み出すには、日常の違和感に対して敏感になる必要がある。
前述のかき氷は、氷を削る刃を変え、食感を変えることで違い=価値をつくることに成功している。

どこで違いを見つけるべきか。かき氷の場合は、氷のクオリティや蜜のクオリティより、削られた氷の形状=刃がクリティカルだったということだ。
これは、新しい価値を生み出す際に、何を問題とするかが最も大切だということを示している。

問題の設定の仕方を間違えると、途端にうまく行かなくなる。
下の写真は、数年前にコンビニで見つけて購入した「生キャラメルグミ」という食べ物だ。
当時、北海道の花畑牧場をきっかけに生キャラメルがブームになっていたことを受けて、「味は生キャラメルで食感はグミ」という世の中にある生キャラメルとは「違いのある」商品として発売された。人は経験で味から食感を予測する。生キャラメルの味から予想した食感と異なるグミの食感は、「気持ち悪い」という感覚になって現れた。

知覚研究者としては興味深い事例だったが、「みんなの好きなグミ(ソフトキャンディ)を人気の生キャラメル味で出せば良い」という課題設定が間違っていたため、この商品はしばらくするとコンビニの棚から消えてしまった。

繰り返すが、新しさにとって「違和感」を孕むことは非常に大切だが、どこに「違和感」を出すかが全ての肝だ。
そして、その判断を誤らないために、ぼくらはあらゆることから学ぶ必要がある。

2011/08/18

メモ

使っていたmoleskineが最後のページまで埋まった。前は6ヶ月かかったが、今回は4ヶ月ちょっとで消費することができた。
少し早くなったことを喜びたい。

聞かれたのでメモについて覚書のようなものを今日は書こうと思う。昨日の「インプット」と合わせて読んでもらえるといいかもしれない。

アイデアメモも選抜のフェーズを導入している。まず形態にこだわりは無いが、雑に書き殴れるメモでひたすらアイデア出しをする。とにかく速さが大切なのとビジュアルが伴うので、必ず手書きでやる。

アイデア出しをするときは、テーマを設ける時と設けない時があるが、効率よくやる時は
 ・お題を設定する
 ・時間を決める(ex:3分以内、次の駅まで等)
といった形で制約をつけてやる。

道具はインクの出が良いとにかく書きやすいペン(PILOT "DOWN FORCE"に三菱JETSTREAMの替芯を入れたもの等)と、無印良品の落書き帳もしくは、写真のように印刷に失敗した裏紙を小さく切って、クリップで留めたもの(写真)を最近はよく使っている。


この裏紙クリップはかなり秀逸で、このクリップを使って、A7サイズに切った紙を留めると、写真のようにクリップのエッジで破くことができ、メモパッド的に使える。
A3なら1枚で16枚とれるから、5枚も切れば80枚の束ができることになる。

こんなメモを使って、制限時間内に、一度出したことがあってもとにかく止まらずに手を動かして、頭の中にあるものを全部吐き出す。時間が終わったら、出したものを見直して、活かすか、もう少し掘って具現化するか、全部捨てるかを選抜していく。

活かすものについては、moleskineに書き写す。書き写す際に、まだイメージが詰められて無かったり、不十分だったら、また戻して手を動かしながら検討する。

moleskineに写したものもそのまま作るという訳ではない。数日〜一週間ほど寝かしながら、たまに見返したりして、作るべきアイデアかどうか検討する。作るべきものはページに付箋をはりながら、何度も何度も吟味・選抜する。

そこまでのフィルターを通した上で、なお残った、作るに値すると思ったアイデアについて、映像の場合はコンテを描いていく。
コンテを描くことで、アイデアの根っこみたいなものはあっても、具体性がなかったみたいなことが分かる。コンテで問題なければ、illustrator上で画面設計(レイアウト)を行い、試作をする。実写の場合は、iPhoneのカメラとか程度でさっくりやる。
グラフィックの場合はそのまま試作を作ってみる。その他の場合も手作りのプロトタイプをできるだけ簡単で早い方法で制作する。

試作した結果、当初のアイデア(仮説)を満たせそうだったら実制作に入る。
実制作に入ったものについても、問題があればすぐ没にするし、解決策を考えている中で、ジャンプできる場合もある。

具体的に数えたことは無いが、イメージとしては、100考えて10選んでコンテ描いて、3個試作して1つ完成みたいな感じだ。

才能を超えるには、より多くの選抜のフェーズ、試行錯誤を行う必要がある。仮説に基づいて厳格に検討していくことによって、意図的に洗練を創りだすことができると考えている。

2011/08/17

インプット

たまったRSSを消化していた。webは本を読むとか展示を観る以外の重要なインプット元だ。
もちろん、普段から疑問に思ったことや気になることをそのままにせずに検索する(調べ上げる)っていうことはやっているけれど、それだけだと狭いソースになってしまうので、普段はGoogleReaderにたぶん100〜200くらいのRSSを突っ込んであるものを読んでいる。

そこから取得されるpostの数は膨大なのだけど、レコード屋でレコードを探すように1ポスト1〜2秒くらいのペースで瞬時に「アリ」か「ナシ」か判断して、「アリ」のものだけスターを付けていく。この段階ではあまり深く考えず、とにかく少しでも気になったヤツはスターを付けて、どんどんポストを消化していく。
これが、第一次選抜だ。

その後、スターを付けたものだけをさらにまとめて見て、もう一度「アリ」か「ナシ」か判断していく。
この時は1秒とかそういう短い時間では無く、もっとじっくり見ていく。その時やっているのは「何故、これを面白いと思ったのか」理由を考えるということ。GoogleReaderはポスト毎にメモが書けるので、考えたことを書いていく。

この第二次選抜が終わった段階で、さらにコレクションしておこうと思ったものについては、それがアート作品であれば、作家の情報を探り、webを探す。その作品が何なのかということを把握し、作家の他の作品でも気になるものは無いか、ポートフォリオを掘っていく。どこの国の何歳の人が作っているかということも、個人的には重要だと思っている。

ここまで出来た段階で、クリップすべきと思ったものをTumblrに投げる。

こういったインプット活動をもう3年近く行っている。
段階を踏んだ選抜を行って精度を上げ、「面白いと思った理由」を考えていくことで、自分の嗜好をより具体的にはっきり知ることになる。
「俺は一体何が好きなんだ。何を面白いと思っているのか」を知らされることになる。

さらにはTumblrに継続的にポストしていくことで、過去の自分との変化も知ることになる。
昔はこれで「面白い」と思ってたものについて、今は「ヌルいな」と思えばそれは変化だしある意味での成長だ。

これは、自分のやっている数あるインプットの1つに過ぎないが、このように継続していくことで、確実に自分の中に面白さの源泉やそれを見つける力が蓄積されていると感じる。

アスリートが毎日トレーニングをするように、自分の「面白さセンサー」のようなものに毎日問いかけ続けることで、なにか生み出せるものがあるのではないかなと考えている。

2011/08/16

脳内マップと空間のスケール

1泊2日の旅に行ってきた。見知らぬ場所を旅する喜びの一つに、「地図上でしか知らなかった場所が、具体的な風景としてはっきり認識できる」ということがある。知らなかった場所同士が、頭の中でどんどん繋がっていって生まれる「自分の家もここも地続きなんだ」という認識は、自分の空間のイメージを大きく拡げることになる。

通勤を徒歩や自転車に切り替えた時も、これに近い感覚が得られた。
これまでは、地下鉄の駅とその周辺だけといった形で、飛び地のように頭の中で地図が作られていた。ところが歩くことで、飛び地同士が空間的に繋がる。
「ああ、この道とここがつながってたんだ」と、どんどん拡がっていく。

空間的なイメージが拡がるというのは日常ではなかなか得難い経験なので、喜びが生まれるのだろうか。

徒歩や自転車で通勤をする時に変化するイメージは他にもある。
それは、空間のスケールだ。
片道4キロの距離でも、毎日歩いているとそれが当たり前になり、抵抗感が無くなる。「4km=遠い」ではなく「4km=●●分で移動可能な距離、疲労は大体このくらい」といったように自分の中に空間と身体が対応した尺度ができる。
そして自転車だと、また別のスケールが生まれる。

脳内マップと空間のスケールがあるのは、何もアクチュアルな実世界だけでは無い。コンピュータの中にも存在する。
あるファイルを取り出す際に、デスクトップの左上にあるフォルダから階層を手繰っていく時と、QuickSilverみたいなアプリケーションでその場で検索するのとでは、イメージが全然違うのではないだろうか。
例えば自分は、検索して取り出す時は、まさに直接手を突っ込んでほじくり出す感覚がある。

言ってみれば、検索は公共交通機関を使った「ワープ」だ。
そしてフォルダ階層を手繰っていくのは、徒歩で通勤することに近い気がする。
先ほどの実世界の例だと、マップが繋がることにより、場所どうしの関係性がはっきり意識されるということがあった。
意味的な関係性の高いファイルは近くに整理しがちなので、コンピュータでも同じことが起こるのだろうか。
ファイル名が違えども、関連性の高いファイルに効率的にアクセスするには手繰った方が早いとか。

例えばAmazonで本を検索する行為と、書店で本を探す行為でも同じことが言えるかもしれない。
検索してピンポイントで本を見つけることと、関連書籍の棚の中から見つける行為にどういった差があるか。

人間の空間認知の特性から自分の情報処理のクセを探すことで、新しいシステムが生まれるヒントが見つけられるような気がする。(もうたくさんあるのかもしれないけど)

2011/08/15

クオリティを知る

「良いものを見たほうが良い」という話は良く言われる事だし、自分でもたまに話したりする。
でも、実際に話を聞かされた方はリアリティを感じないかもしれない。

少し自分の話をしよう。多少でも行動を起こすきっかけになれればいいなと思う。


小学五年生の時に、ひょんなきっかけで吹奏楽部に入部した。
生まれて初めて託された楽器は、Euphoniumだった。
その年から赴任した音楽の先生は、僕達に吹奏楽のために書かれたコンサート曲をくれ、練習を始めることとなった。

ある日の放課後、先生と話をしていた時に「プロの演奏を聞いてみると良い」と教えてくれた。
たぶんこれが、自分のお金で始めて買ったCDだと思う。かなり苦労して探した(結局取り寄せた)けど、なんとか見つけた。東京佼成ウインドオーケストラというプロの吹奏楽団が、自分たちがやっている曲を演奏したCDだ。

初めてこのCDを聴いて、額然としたあの日のことはよく覚えている。
自分たちと同じ楽譜、同じ楽器(厳密にはこれは違い、遥かにグレードの高いモノを彼らは使っていたわけだけど、本質では無いのでこう書く)なのに、こんなに音が違うのかと。
何故、自分(たち)はこの音が出せないんだろう。
何が違うのか、とかなり真剣に考えはじめた。
その日から練習方法等が全て変わったし、上達の度合いもかなり変化したと思う。

これが、自分の「クオリティ」というものを知る初めての体験だった。
これまで上手い絵画等を見ても、もちろん自分は絵も描けないしそもそも描いたことが無いし、自分とは全く関係のない世界、地続きで無い世界だと思っていた。
ところがこのCDを聴いた時、自分たちと彼らとはかなりの距離はあるけれど、全くの別世界のものではなく、一つの直線上にある地続きのものである事もまた分かった。
たぶん、同じ楽譜・同じ楽器という共通したフォーマットがあったからだろう。

「クオリティ」があるものを、自分と地続きのものとして捉えるというのは、ゴールと自分の居場所を定義するということだ。それをすることで、ゴールに向かうためにどうすればいいかという思考に、初めて向かうことができる。

自分が小学校の時に受けた教育で最も貴重なものが、この先生の「プロの演奏を聴いてみると良い」という言葉だったと今になって思う。

この体験のおかげで今の自分がある。

ここで言いたかったことは、良いものをただ見ても意味が無い。良いものは何が良いのか、どうして良いと思うのか、自分と(自分の目指すイメージと)比べてどうなのか。を考えることが大切だということだ。
まだ夏休みも少しある。
是非様々なものに触れて、自分の抱く理想の「クオリティ」というものを見出して欲しい。

2011/08/14

スケールのミスマッチ

移動中地下鉄に乗っていると、正面に4歳くらいの男の子と母親が座った。

その時、その子の着ていたポロシャツのロゴマークが、異様に大きかったことに気がついた。本物なのだけど、本物じゃない、偽物のように見えてしまったことがとても気になって少し考え込んでしまった。

どんな些細なモノでも、見慣れた(その人にとっての常識になっている)バランスが崩れると違和感を混じる。人はその違和感を見逃さない。

何か知覚的におかしい、違和感を抱く現象に遭遇した時は、「それが後から獲得した知識・記憶に由来しているのか、それとも生まれつき本能としてインストールされているものに由来しているのか」ということを考えるようにしている。
これを整理することで、さっき抱いた違和感が、人類全体に共通するユニバーサルな問題なのか、日本人だけなのか、自分と同じ教育・文化的背景に由来しているのかをはっきりさせることができる。

冒頭の出来事で自分が考えていたのは、「ポロシャツのロゴ」に違和感を抱いたのは、後天的な知識に由来するが、自分の中の記憶・常識と照らし合わせて「スケールのミスマッチ」に違和感を抱くという事自体は、ユニバーサルな感覚なのではないかということだ。

写真は、例としてネットのニュースサイトで拾って来たものだが、誰の顔になっているかという瑣末な知識より、顔の大きさのバランスがおかしい(スケールのミスマッチ)という違和感の方が先に起こるのではないだろうか。

このような例からも、「スケールのミスマッチ」を表現方法として応用すれば、見ている人の注意を引き起こす新しい仕組みができるのではないかと考えている。



2011/08/13

ファーストインパクト

僕は数学が好きだ。決して得意ではないが、好きだ。
教科書を読んでいると、新しい概念(世界の見方)が次々に、明確に定義された形で出てくるのは本当に興奮する。
テストで良い点を取るより、こういった概念を味わい、理解する事が本当に重要だったし、喜びだった。

その、一番最初は、小学校の時に知った「二進数」と中学の頃に教わった「余事象」だったと思う。

二進数は、0と1だけで数が表現できてしまうというアイデアに、ただただ興奮していた。
小学生の頃答案の裏に、テストの余った時間で50までの数を二進数でみっしり書いたことは今でもはっきりと覚えている。
今思うと、あれは本当に幸せな時間だった。
ルールを厳格に守りながら、頭と手で黙々と、自分が機械になったかのように変換作業をする。その時は他のことは全く考えず没頭していた。
図画工作の時間以外でハマって熱中するのは、始めての経験だった。

余事象を知った時は、自分の「ものの見方」が変わった瞬間だった。「ある事を知るために、ある事で無い事を知る」という余事象の考え方は、
「意識してものの見方は変えられる」という視点を始めて教えてくれた。

こういう事を知った時に、自分は生まれたんだと思う。特定の映像や音楽、表現に触れて感動する以前に、(数学的な)概念に触れて感動していた。

子どもの時のファーストインパクトは、やはり現在の自分に大きな影響をもたらしている。

いつもこんな事を思い出しながら、子どもの未来に関わる仕事をしている自分の気を引き締めている。

2011/08/12

定められた未来

朝のニュースショーでは、御巣鷹山の日航機墜落事故の話が、NHKを除きとうとう全く出なくなった。「これも時代の移り変わり」とあっさり片付けていいものでも無いだろう。520名もの死者を出した、史上最悪の飛行機事故なのだから。

この事件は自分が5歳の時に起きたのだが、周囲に関係者がいるわけでは無い。言ってしまえば全く無関係な事故だ。にもかかわらず、おそらく一生忘れないだろう。8月12日、この日は僕の誕生日だからだ。

毎朝、誕生日の朝になると、この事故に関するニュースが流れていた。自分の誕生日=痛ましい事故のあった日と小学校に入る前から刷り込まれてきている。

さて、自分が大学に入った1999年頃は、今とは全くインターネットの様相が違っていた。いわゆる「アングラ」と呼ばれる情報は本当に地下に潜ったようなところに集められ、自分たちのような大学生をそれらの情報を好奇心の思うがままに貪り読んでいた。

その中の一つに、あるflashムービーがあった。
どんなものかというと、件の日航機墜落事故のフライトレコーダーの音声と、羽田を発ってから御巣鷹山に墜落するまでの飛行機の位置が、地図上にマッピングされる形で同期しながら動くムービーだ。(参考:以下URL)
日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故 (飛行跡略図 Ver1.2 & ボイスレコーダー)

このムービーのポイントは、「終わり」がはじめから分かっているということだ。あとどのくらいで事故が起こるか、私たちは知っている。ムービーを見ると、地図には御巣鷹山がマッピングされているし、YouTubeのシークバーの残り時間は事故への分り易すぎるカウントダウンだ。

「定められた未来」を前にして、私たちはただ、なす術もなく、事が起きるのを待つしか無い。
この動画を見る度、なんとも言えない気持ちに襲われ、絶望する。しかしこの未来は、亡くなってしまった彼らの未来を追体験しているだけだ。
見て検証することで得られる知見もあるが、無力さを痛感しているだけでは何も始まらない。

この文章を読んでいる私たちの未来は全く「分からない」。私たちは「分からない未来」については、思う存分もがいて関与することができる。ただ事が起きるの待つこともできるが、関与することができる。関与した結果、成功するか失敗するかはもちろん分からない。
それでも、意志をもって関与していくことこそが、今を生きている「分からない未来」を持つ自分たちの義務なのではないかと、思っている。

また一つ歳をとった。この1年は「分からない未来」にできるだけ多くもがいて関与して行きたいと思う。成果のみを求めるのではなく、行動することを称える1年にしたい。

2011/08/11

生茶スパークリング

仕事中に雑談というのはよくあるのだが、弊社は社員の大半が女性なので、雑談の内容が新しいiPhoneの話になることはほとんどなく、大抵は美味しいものだったりするわけなのだが、今日は「生茶スパークリング」が話題になっていた。

「生茶スパークリング」とは、「炭酸が入ったほんのり甘い緑茶」という清涼飲料水だ。

これだけ書くと相当マズそうだし、事実自分は発売されてすぐに「どのくらいマズいんだろう〜」とかなり期待して飲んだのだが、実際飲むと、もちろんマズいの範疇には入るのだけど、予想以上にマズくはなく意外と飲めてしまう。そこが心から不満だし残念であったと、今日は皆に告げた。

そんなこともあって、「生茶スパークリング」について色々考えていた。
もし自分がキリンビバレッジの新商品販売に関する意思決定権を持つ人間だとして、この「生茶スパークリング」にGOを出しただろうか。仮にGOを出すとしたら、どのような考えに基づいて、発売するのだろうか。

真っ当に考えると、清涼飲料水は購入習慣を作って、毎日継続して飲んでもらいたいと考えるだろう。主戦場の売り場であるコンビニは競争が激しいため、売れないとすぐに下げられ売り場を失ってしまう。そういった意味でも、継続して一定数売れ続けることは、とても重要だ。
だが、「生茶スパークリング」は飲んだ時点で、こちらの路線(毎日継続して飲まれる商品)は厳しいのではないかと思われる。
とすると、「生茶スパークリング」は何のために存在しているのか。
定番飲料じゃなくとも、話題になってみんな(数百~一千万人単位)が1回ずつ買えばいいっていう考え方なのか。
こんなことをダラダラ考えている暇は無いし、答えが分かるわけではないのだが、こういう見えない意図を探るのはとても面白い。

自分が商品開発をやってる立場から言えるのは、新規性やインパクト、ある種の「アクの強さ」が無いとやっぱり市場では生き残れない。だからこその販売戦略なんだろうと思う。

最初は「なんだコレwwww」とか思ったものが、いつの間にか市民権を獲得して、社会の中で当たり前になっているものは結構ある。
例としてふさわしいかは分からないが、例えば「仮面ライダー」。毎年新しい仮面ライダーがその関連商品と共に登場するが、最初は「なんだコレ」と思うデザインだったり変身ポーズだったりする。しかし1年経ち番組終了を迎えるころには、すっかり慣れて「当たり前」のものになってしまっている。

身の回りのものの「当たり前になってしまった、なんだコレ」を探してみると良い。
きっと当たり前になる過程で行われた、定期的な接触と、それを行わせるためのファーストインパクトを生み出した、綿密なコミュニケーション戦略を読み取ることができるはずだ。

2011/08/10

人間の目の精度

今日、TEEPARTYから新しいTシャツを2つリリースした。
『「あ」の二等分線』『「す」の二等分線』というタイトルがついているのだが、本当にタイトルそのままのグラフィックだ。
http://teeparty.jp/pid/7087
http://teeparty.jp/pid/7086

もともと、文字に二等分線を引いたら、文字を「意味を持つ記号・概念」ではなく、単に図として見えてくるのではないか。
さらにあわよくば、折り曲がる物体みたいなものとして見えてくるのではないかという勝手に妄想に基づいて、
『「あ」の二等分線』というグラフィックをつくろうと思い、試作した。

その時は、なんとなく文字の形とボリュームを見て、このあたりだろうと仮に二等分線を引いていたのだが、Tシャツにしようと細かく調整している際に、せっかくだからできる範疇でなるべく正確にしようと思い、(文字部分の正確な面積を求めるのはちょっと労力がかかるのと、元々の主旨とか異なるため)
「あ」の凸包(ピッタリ「あ」が収まる一番小さな図形)を描いて、その面積が半分になるところに線を描いた(赤い線)。

すると、ほぼ、元々描いていた線(PQ)と重なった。
※線の取り方(左肩上がりや横一直線に近い傾きなど)自体は複数あるがそれは置いておく

この、視覚による空間把握の精度の高さは、人間がかなり視覚優位で物事を認知しているということが如実に現れている。

例えば、「時間」だったらどうだろう。試しにストップウォッチで何も見ずに、30秒ピッタリに止めることができるだろうか。

例えば、「重さ」だったらどうだろう。試しに茶碗にごはんを300グラム、目分量と手に感じる重量だけでピッタリ盛ることができるだろうか。

おそらく、かなり難しいだろうと思う。ただ、これらの事をかなり正確にできる人達もいる。
例えば、映像を生業としている(特にTVCF)人の時間精度は15秒、30秒という単位でおそろしく正確だ。
また、松屋の熟練した店員が米を盛る精度も、はかり無しで問題無いレベルだったのを見たことがある。

人間誰しも、「解像度が高い」分野が一つはあるはずだ。
あなたの「解像度が高い」部分はなんですか?是非話を聴かせてもらいたい。